第一編:『完璧なアリバイと、冷えたおでん』
(真っ暗な背景の中に、
スポットライトに照らされた男がポツンと立っている。
男の名は宮高祐介。
少し猫背で、黒いトレンチコートの襟をいじりながら、
人差し指を額に当ててこちらに語りかけてくる)
「……えー、みなさんは
『完璧なアリバイ』
というものを信じますか?
世の中には、自分が犯行に及んだその瞬間、
完璧に別の場所にいたと証明しようとする人間がいます。
時計を細工したり、録音テープを使ったり、
あるいは……他人の記憶を巧みに操作したり。
しかしね、完璧であればあるほど、
そこには不自然な
『隙間』
が生まれるものです。
なぜなら人間は、想定外の事態に直面したとき、
どうしても隠しきれない
『癖』
を出してしまう生き物だからです。
今回の犯人は、時間を操る天才でした。
……あ、私の名前ですか?
宮高祐介といいます。よろしくどうぞ」
(ジャララーン、
というおなじみのジャズ調ナンバーが鳴り響く。
タイトル:『完璧なアリバイと、冷えたおでん』)
*
1
その夜、大田区の閑静な住宅街にある一軒家で、
高名な推理作家・跡見宗介(あとみ そうすけ)
が書斎で息絶えているのが発見された。
死因は、
頭部を重厚なブロンズ像で殴られたことによる脳挫傷。
現場にやってきた宮高は、
いつもの黒いトレンチコートを羽織り、
少し腰をかがめながら、
部屋の調度品を一つ一つじっくりと眺めていた。
「宮高さん! 宮高さーん!」
ドタバタと大きな音を立てて入ってきたのは、
助手の宮崎凌介だった。
額に汗をかき、
いかにも頼りない表情でメモ帳を握りしめている。
「もう、どこ行ってたんですか!
容疑者の身元、割れましたよ!
亡くなった跡見先生の門下生で、
アシスタントの落合(おちあい)って男です」
「……宮崎くん」
宮高は振り返り、ねっとりとした口調で言った。
「足音がうるさい。ここは殺人現場ですよ。
もっと静かに、こう、忍び足で歩けないかね」
「すいません、すいません! でも聞いてください。
その落合って奴、完璧なアリバイがあるんです。
被害者の死亡推定時刻は、
お医者さんによると夜の8時から9時の間。
でも落合はその時間、
ここから車で30分も離れた場所にある居酒屋
『赤ちょうちん』
で、ずっと酒を飲んでたんです。
店の店主も、常連客も、
みんな彼を見たって証言してるんですよ。
犯行なんて絶対に不可能です!」
「完璧……。いい響きだ」
宮高は不敵な笑みを浮かべ、
書斎のソファに腰掛ける落合の元へゆっくりと歩み寄った。
落合はショックに震えるふりをしているが、
その目にはどこか、
すべてを計算通りに進めた者の余裕が漂っていた。
2
「……えー、落合さん。先生が亡くなって、本当に災難でしたねえ」
宮高は落合の真横に立ち、不自然なほど顔を近づけた。
「ええ……。先生は私の才能を一番に認めてくださっていたのに、一体誰がこんな酷いことを……」
落合は目元を拭う。宮高はその様子を、
じっと、まばたきもせずに観察している。
「落合さん、あなたは今夜、8時から9時まで、ずっと居酒屋にいらっしゃったとか」
「はい。店主の源さんも、常連の田中さんも見ています。
私は七時半に店に入り、九時半まで一歩も外に出ていません。宮崎刑事にもそうお伝えしました」
「素晴らしい。完璧なアリバイだ。宮崎くん、
君ならこれを聞いてどうする?」
「え? そりゃあ、落合さんは白ってことで、
他の怪しい奴を探しに……」
宮崎が呑気に答える。宮高は大きくため息をついた。
「だから君はいつまでたってもうだつが上がらないんだ。……落合さん。あなたはその店で、何を召し上がりました?」
「……え? おでんです。大根と、卵と、ちくわぶ。
寒かったので、熱燗を二合ほど」
「おでん。いいですねえ、この季節のおでんは最高だ。
味が染みていてねえ」
宮高は、ふっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「実はね、私もさっき、その『赤ちょうちん』に寄ってきたんですよ。源さんに話を聞きにね」
「そうでしたか。私の言った通りでしょう?」
落合はふんぞり返る。
「ええ、確かに源さんは、あなたが8時に店にいたと言っていました。……ただね、一つだけ、どうしても解けない謎があるんです。宮崎くん、ちょっと私の後ろに立ちなさい」
宮高は落合を座らせたまま、その周りをゆっくりと、
円を描くように回り始めた。宮崎はわけも分からず、
宮高の後ろを金魚のフンのようについて回る。
「源さんは言っていました。
あなたが注文したおでんを出す時、
ちょうど店が混み合っていて、
大根の中にまだ芯が残っているかもしれないと
心配したそうです。だから、あなたに
『熱いから気をつけてな』
と声をかけた。……覚えていますか?」
「ええ、覚えています。確かに言われました。
でも、それが何か?」
「あなたがそのおでんを食べたのは、何時頃ですか?」
「……八時十五分頃だったと思います。熱燗と一緒に、
美味しくいただきましたよ。
それが私の、アリバイの証明です」
3
宮高はピタリと足を止めた。
そして、落合の真後ろから、その耳元に顔を寄せ、静かに、しかし冷酷に囁いた。
「おかしいですねえ。……落合さん。
私がさっき店で確認したんですがね、
あの店のおでん鍋は、
夜の七時四十五分にガスボンベが切れて、完全に冷めきっていたんですよ。源さんが忙しさのあまり、新しいボンベに替えたのは、八時半です」
「な、何が言いたいんですか」
落合の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「あなたが八時十五分に食べたおでんは、
本当は『冷え切っていた』はずなんです。
湯気なんか出ていない。
なのに、あなたは
『熱いから気をつけて』
と言われた記憶と、おでんを美味しく食べたという事実を、
頭の中で勝手に合成してしまった。
……なぜなら、あなたは実際には、
その時間に店にいなかったからだ」
「バカな! 店のみんなが僕を見ていたんだ!」
落合が立ち上がり、声を荒らげる。
「宮崎くん、説明してあげなさい」
宮高に振られ、宮崎はあわててメモをめくった。
「え、えーっと! 見ていたのは、七時半の落合さんと、
八時半以降の落合さんです!
落合さんは七時半に店に入り、
注文だけして、店の裏口からこっそり抜け出した。
そして、あらかじめ用意していた身代わりの男
――落合さんと同じ体格で、同じコートを着た友人に、
あなたの席に座らせた!
店が混雑していたため、
誰も顔までは確認していなかった。
落合さんは先生を殺害した後、
八時半に何食わぬ顔で席に戻り、
本物のあなたとしておでんを食べ始めた……。
あ、合ってますか、宮高さん!?」
「珍しく正解です、宮崎くん」
宮高は落合の目をじっと見つめた。
「落合さん、あなたは完璧なシナリオを書いたつもりだった。しかし、おでんの温度までは計算できなかった。
それが、あなたの限界です」
落合は、がっくりと膝をついた。
「……先生は、私の小説のトリックを盗もうとしたんだ。
だから……」
宮高は、トレンチコートのポケットに手を入れ、静かに悲しげな目を向けた。
「……えー、落合さん。他人のアイデアを盗むのもいけませんが、人の命を盗むのは、もっといけません」