2010年08月02日
当マガジンが「宣伝会議」で紹介されました。
月二回発行の「宣伝会議」毎月一日号では、地域活性を目的にした広告コミュニケーション事例が紹介されています。
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その二〇一〇年八月一日号の事例に、「八軒家かいわいマガジン」を取り上げていただきました。
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↑当マガジンの制作に協力していただいている日本SPセンター様から応募していただきました。
投稿者 tategaki : 14:37| コメント (0)| トラックバック (0)

月二回発行の「宣伝会議」毎月一日号では、地域活性を目的にした広告コミュニケーション事例が紹介されています。
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その二〇一〇年八月一日号の事例に、「八軒家かいわいマガジン」を取り上げていただきました。
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↑当マガジンの制作に協力していただいている日本SPセンター様から応募していただきました。
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八軒家かいわいマガジンでは、「江戸時代の天神祭」特集号の告知活動を行っています。
一、ポストカード
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↑地下鉄主要駅に設置されているカードラック(デジャパ=詳細はこちら)に、当NPOを紹介するポストカードを置いています(合計1000部)。
二、八軒家かいわいマガジンちらし
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↑八軒家浜「川の駅」に、マガジン「江戸時代の天神祭」特集号をお知らせするチラシを置いています(限定100部)。ポストカードも同時に配布しています(限定50部)。
三、特大ポスター
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↑当会の入居するキタガワビル(島町一丁目四の三)北西角に特大のポスターを掲示。
お近くにお寄りの節はぜひ。お友だち・お知り合いにもお知らせください。(津川)
投稿者 tategaki : 13:04| コメント (0)| トラックバック (0)
八軒家マガジン最新号「近松の曽根崎心中 誕生秘話」をお読みいただいた読者の方からお便りをいただきました。その中に、わが八軒家にはうれしいお知らせもありましたので、紹介させていただきます。
(以下引用)
最近、八軒家コンテンツが充実してきたので、楽しく読んでいます。特に今回は、私の好きな近松、そして曽根崎心中ですから、なおさら。
ストーリーはもちろん知っているけれど、少し視点を広げて当時の悪所事情があったり、前から気になっていた金額的なデータがあったりで、曽根崎ファンにも新たな情報があって、読みごたえありました。やっぱり、(著者)さすがです。
近松ものばかりテーマにするわけにもいかないでしょうが、『心中天網島』の名場面“名残の橋づくし”にはバッチリ八軒屋が読み込まれているので、お知らせしておきます。
「北へ歩めば我が宿を、一目に見るも見返らず、子供のゆくえ女房の、哀れも胸に押し包み、南へ渡る橋柱。数も限らぬ家々を、いかに名付けて八軒屋。誰と伏見の下り舟、着かぬ内にと道急ぐ、この世を捨てて行く身には、聞くも恐ろし天満橋。」
以上、八軒家マガジンブラボ〜&お知らせでした。
(以上、一部引用終り)
ありがとうございました。おまけの画像です。
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↑執筆中の近松の肖像
「浄瑠璃評注難波土産」所収。「難波土産」は元文三年(一七三八)刊の浄瑠璃評注書。著者は三木平右衛門、讃は穂積以貫。片手に筆をもち、机によりかかって作品を考える近松の姿が描かれています。丸に一つ引の紋が近松であることを示しています。穂積以貫は、大坂の儒学者で浄瑠璃作者 近松半二の父にあたり、晩年の近松と親交がありました(特別展「ごぞんじ?近松門左衛門」鯖江市より)。
投稿者 tategaki : 15:33| コメント (0)| トラックバック (0)
水辺と街をつなぐ大阪の新名所として、昨年8月1日(土)より運営されている、『「川の駅」はちけんや』。かつて淀川舟運の港であり、熊野街道の起点でもあった「八軒家浜」において、水の都大阪再生の拠点として建設された賑わい施設。都心部で水陸交通の結節する「川の駅」としては、関西初の施設だそうです。
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↑天満橋から「川の駅」はちけんや (大阪府報道資料より)
その『「川の駅」はちけんや』の地下1階の地域情報発信コーナーの向かい側にあるチラシスタンドに今月から、「八軒家かいわいマガジン」が、大阪の観光情報や府からお知らせなどともに、設置されています。
特定非営利活動法人 大阪水上安全協会さまのご協力で実現しました。ぜひ、一度施設の見学も兼ねてお立ち寄りください。
すでに、お知らせの通り、大阪市営地下鉄の主要駅では「大水都WEBサイト」の紹介や執筆者募集のポストカードが設置されています。皆さまからも、さまざま機会を捉えて、「大水都」のWEBプロモーションのご推進、よろしくお願いいたします。(村井)
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↑大阪市営地下鉄主要駅に設置されたカードラック(デジャパ)。
投稿者 tategaki : 14:38| コメント (0)| トラックバック (0)
ウェブサイトの紹介とマガジンづくりの協力者募集を兼ねたポストカードです。
市政新聞社さんに協力していただき、大阪市営地下鉄主要駅に設置されているカードラック(デジャパ)に置いてもらっています(左の写真)。
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↑地下鉄谷町線・天満橋駅のカードラック(二九日)。撮影協力はOさん。
設置駅は以下の通り。
新大阪、梅田、東梅田、西梅田(北)、西梅田(南)、淀屋橋、本町、心斎橋、難波(北)、難波(南)、南森町、天満橋、谷九、北浜
一週間ぐらいでなくなるそうですので、ご希望の方はお早めに。(津川)
投稿者 tategaki : 10:54| コメント (0)| トラックバック (0)
↑歌川国芳「燿武八景 石山暮雪」「鈴木重幸 東風の屋」(写真はウィキメディアより)
嘉永五年(一八五二年)、一勇斎国芳五十四歳の作。八人の武将を描いたシリーズの一枚。石山とは、もちろん大坂・石山。われらが八軒家とは目と鼻の先である。武将の名は鈴木重幸とあるが、鉄砲を持っていることや服装から見て、描かれた人物は雑賀の孫市こと鈴木孫市(孫一)で間違いないだろう。孫市は代々受け継がれる名称だったらしく、石山合戦当時は孫市=鈴木重秀説が有力。重幸は候補にあがっていない。それでは、鈴木重幸て、いったい?
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↑「絵本石山軍記・初篇」 土屋正義 編輯・松川半山 [ほか]画(早稲田大学蔵)
時代は下るが、明治初期に出版された「絵本石山軍記」(土屋正義編)によれば、元亀元年(一五七〇年)に鈴木飛騨守重幸が軍師として石山城(本願寺)に入城したとある。同じ姓で重がつくところなど、まぎらわしいかぎりであるが、国芳はこの人物を孫市と勘違いしたらしい。重幸も紀州出身である(「日本名城伝」海音寺潮五郎)ことから、ひょっとしたら、孫市と親戚(あるいは親子?)であった可能性も捨てがたい。(津川)
投稿者 tategaki : 15:11| コメント (0)| トラックバック (0)
八軒家かいわいでも「ご当地検定」を、という声におこたえします。「大阪検定」よりもディープでコアな「八軒家かいわい検定」(平成二十三年二月改訂版)。八問以上正解の方には「八軒家かいわい博士」を名乗っていただきます。認定証はまだ作っておりませんので悪しからず。ではでは
第一問
あまり知られていないのですが、現在このあたり(※)には、ハープ屋さん、バイオリン工房など、楽器関連の店が何軒かあります。何軒あるでしょう? ※東は谷町筋、西は松屋町筋、北は土佐堀通り、南は本町通りで区切る。
(1)三軒 (2)五軒 (3)八軒 (4)十四軒
第二問
北大江公園の北側(現在マンションがある)に、戦前(昭和十年頃)建っていたある建物とは?
(1)ロシア正教会 (2)水上警察署 (3)青物市場 (4)GHQの住宅
第三問
当会の入居する島町キタガワビルの建設時、約七メートル下の地層であるものが発見されました。それは何?
(1)ナウマンゾウの化石 (2)大阪城の瓦 (3)奈良三彩の?壺 (4)漆塗りの櫛
第四問
釣鐘町にある釣鐘は、元は江戸時代に設置されたものですが、何のためにつくったのでしょう?
(1)三十石船の出航を知らせるため (2)大阪城にあったものを移設した
(3)道成寺の鐘を移設した (4)税金を負けてもらったお礼のため
第五問
八軒家の船宿は、新撰組も勤王の志士たちも利用しました。では薩長土の侍たちがよく泊まった船宿は?
(1)京屋 (2)堺屋 (3)水屋 (4)大坂屋
第六問
八軒家は平安時代、熊野詣の出発点でもありました。では、ここから熊野までの所要日数は?
(1)約五日 (2)約十日 (3)約二十日 (4)約一ヶ月
第七問
江戸時代に京大坂間を往復した三十石船は、いつ頃まで運航していたでしょう?
(1)吉宗の頃まで (2)大政奉還のときまで (3)明治二十?年頃まで (4)大正の初めまで
第八問
江戸時代の公儀橋のうち、明治三年に大阪初の鉄橋になった橋はどれでしょう?
(1)天神橋 (2)天満橋 (3)高麗橋 (4)本町橋
第九問
大阪城がある場所に、それ以前にあった寺院の名前は何でしょう?
(1)難波寺 (2)四天王寺 (3)和光寺 (4)本願寺
第十問
大阪独特の手じめの仕方を「大阪じめ」といいます。その方法は、次のうちどれでしょう?
(1)打ちまーしょう パンパン、もひとつせー パン、 祝おうて三度 パパンがパン
(2)打ちまーしょう パン、もひとつせー パンパン、 祝おうて三度 パパンがパン
(3)打ちまーしょう パンパンパン、もひとつせー パンパン、 祝おうて三度 パパンがパン
(4)打ちまーしょう パンパン、もひとつせー パンパン、 祝おうて三度 パパンがパン
解答と解説はこちらをご覧下さい。
投稿者 tategaki : 12:05| コメント (0)| トラックバック (0)
※平成二十三年二月改定版・問題はこちら
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第一問
あまり知られていないのですが、現在このあたり(※)には、ハープ屋さん、バイオリン工房など、楽器関連の店が何軒かあります。何軒あるでしょう? ※東は谷町筋、西は松屋町筋、北は土佐堀通り、南は本町通りで区切る。
正解:(3)八軒
解説:中川弦楽器(マンドリン)、ソハマミュージック(アコーディオン)、鈴木弦楽器(バイオリン)、山本ストリングハウス(バイオリン)、Liuteria―BATO(バイオリン)、豊田屋楽器店(和楽器)、青山ハープ(ハープ)、弦楽器FUJIYA(コントラバス)の8軒。このかいわいは、楽器製造・販売業者の密集地として、NHKの「生活ほっとモーニング」でも紹介されました。
第二問
北大江公園の北側(現在マンションがある)に、戦前(昭和十年頃)建っていたある建物とは?
正解:(1)ロシア正教会
解説:大阪ハリストス正教会として明治十一年(一八七八年)開教。明治四十三年(一九一〇年)、この地に木造ビザンチン式の聖堂が建立されて、大阪生神女庇護聖堂と名付けられました。
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↑石町にあった教会。門の前が今の北大江公園あたり。写真は大阪ハリストス正教会(吹田市)提供。
第二次大戦の空襲で焼け落ち、一九六二年に現住所(吹田市)に再建。鐘楼の鐘の一つは前代聖堂のものですが、さて、新教会に移ったのはこの鐘だけでしょうか?詳しくはこちらで。
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↑現在の大阪ハリストス正教会(吹田市)に置かれた鐘楼。撮影は当NPO会員。
第三問
当会の入居する島町キタガワビルの建設時、約七メートル下の地層であるものが発見されました。それは何?
正解:(3)奈良三彩
解説:奈良三彩は緑・褐・白の釉薬を掛けた陶器で、中国唐の技術が遣唐使によって難波津に伝えられたものと言われています。これらの小壺は、キタガワビル(大阪市島町一丁目、難波宮の北西)の基礎工事中に、8世紀後半とみられる井戸と整地層から、土師器・須恵器とともにまとまって出土しました。奈良三彩は宮殿跡や貴族の邸宅跡などから見つかりますが、出土数が非常に少なく、 実用品ではない祭祀用のものと考えられています。※大阪市文化財協会ホームページより(写真も)
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第四問
釣鐘町にある釣鐘は、元は江戸時代に設置されたものですが、何のためにつくったのでしょう?
正解:(4)税金を負けてもらったお礼のため
解説:大阪の商人たちは、この政策によりいっぺんに徳川びいきに変身したといいますな。詳しくは八軒家かいわいマガジンで。
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写真は大阪市「歴史の散歩道」より
第五問
八軒家の船宿は、新撰組も勤王の志士たちも利用しました。では薩長土の侍たちがよく泊まった船宿は?
正解:(2)堺屋
解説:元ネタは司馬遼太郎「十一番目の志士」。
以下、この小説の主人公天堂晋助と桂小五郎が八軒家にやってきたところです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
川岸に船宿がずらりと並んでいる。
「堺屋」
という船宿に桂は入った。
「船が出るまで、二階で休息する」
と、桂はいった。
無口だが懇切な男で、忠実な案内人のようにその場その場を説明してくれるのであ
る。
「この船宿の町は、大坂と京を結んでいる」
事実、結んでいる。
この堺屋から、朝三艘、昼三艘、夜五艘の三十石船が出てゆく。のぼり終点は伏見の
寺田屋である。伏見寺田屋と天満堺屋とは一番(ひとつがい)の組合をつくってい
て、寺田屋からも同数の船がくだってきて堺屋の浜につくのだ。
他の船宿も、伏見の船宿と一番になっている。それぞれが船を出す。
「この堺屋・寺田屋というのは、薩長土の者がよくつかう」
「すると、幕府関係者がつかう船宿もきまっているのですか」
「天満京屋・伏見水屋、さ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というわけです(ただし、司馬さんの創作でなければ)。
ところで、八軒家浜とは実際のところ、どこにあったのでしょうか?その答えはこちらで。
第六問
八軒家は平安時代、熊野詣の出発点でもありました。では、ここから熊野までの所要日数は?
正解:(2)約十日
解説:後鳥羽上皇は幾度も熊野に足を運ばれたことで有名ですが、そのうち建仁元年(一二〇一年)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を明月記(熊野御幸記)に記しています。それによれば、十月五日に京を出発した一行はその日のうちに窪津(八軒家浜)を過ぎ、目指す寶前(熊野本宮大社)に到着したのが十六日となっています。さらに知りたい方は八軒家かいわいマガジンで。
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土佐堀通りと御祓い筋の角に平成二年(一九九〇年)に大阪市が設置した「熊野かいどう」起点の碑。撮影は当NPO会員。
第七問
江戸時代に京大坂間を往復した三十石船は、いつ頃まで運航していたでしょう?
正解:(3)明治二十年頃まで
解説:明治元年(一八六八年)明治維新を迎え、京坂間の輸送が必要であったため、当初新政府は既存の水運業者に運送を任せました。しかし、近代化をすすめる政府は株仲間の廃止によって従来の水運業者が持っていた独占的な営業権を一掃し、ここに三十石船の制度は喪失しました。明治四年、最新型の外輪船を輸入し、淀川に就航させ、明治中頃まで外輪船と和船の競争がありました。(摂津教育委員会「郷土摂津いにしえ通信」より)
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歌川広重「浪花名所図会 八軒屋着船の図」(大阪府立中之島図書館)。
三十石船での伏見ー大阪の道中案内書が、江戸時代からいろいろありました。そのうちの一つが、天宝十四年(一八四三年)の「大川便覧」です。幅18.6センチ、長さはなんと460センチもあります。今でいう観光マップですな。こちらのブログで全部見られます。
第八問
江戸時代の公儀橋のうち、明治三年に大阪初の鉄橋になった橋はどれでしょう?
正解:(3)高麗橋
解説:明治三年(一八七〇年)にイギリスから輸入した鉄材を使って作られたそうです。長崎のくろがね橋、横浜の吉田橋に次いで日本で三番目の鉄橋です。当時の雄姿をおさめた写真が残っています。八軒家かいわいマガジンでごらんください。
ところで、現在の橋のたもとを飾る擬宝珠(ぎぼし)は豊臣時代の物のレプリカですが、さて本物の擬宝珠はどこに?
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お知りになりたい方は、ブログで。
第九問
大阪城がある場所に、それ以前にあった寺院の名前は何でしょう?正解:(4)本願寺
解説:いわゆる石山本願寺として知られています。明応五年(一四九六年)浄土真宗の蓮如が創建したと伝えられています。当時は大坂御坊または大坂本願寺と呼ばれていたようです。大坂の呼称はここから始まったとも伝えられています。織田信長との長い戦争(石山合戦)の末、和睦後に焼失。
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石山合戦絵伝
第十問
大阪独特の手じめの仕方を「大阪じめ」といいます。その方法は、次のうちどれでしょう?
正解:(4)打ちまーしょう パンパン、もひとつせー パンパン、祝おうて三度 パパンがパン
解説:大阪天神祭り の「舟渡御」では、川を上る舟と下る舟とが出会ったときに、お互いにエール交換をします。この時にするエール交換というのが少し変わっていて、「大阪じめ」を互いに送り合ういわば礼を尽くすのが習わしとなっています。(略)いわゆる三三七拍子や一本じめなどと同じ意味合いを持っています。拍手(かしわで)の変形した物。この大阪じめのルーツは生国魂神社ではないかという話しを得て、宮司さんにお話しを伺うと、最初に生玉じめというのがあり、それの変形として大阪じめが出来たらしいとのこと。(略)この大阪じめは、近年北浜(株式市場)や、大阪の問屋街では商談成立時に打たれていて、これでしめたら覆す事は出来なかったらしい。書類よりも重視されたそうで、書類のように後で改ざんすることは出来なかったというから凄い!!それだけに大阪商人は「人と人との繋がり」が大切だったんでしょうね。 (ピー・サファイア「生国魂神社レポートその2」より)
投稿者 tategaki : 11:33| コメント (0)| トラックバック (0)
朝日新聞(12月2日朝刊/大阪市内版)に八軒家かいわいマガジンが紹介されました。その日のうちに早くもお電話が7、8本。「八軒家にこんな料理屋さんがあった」「昔、文楽の芝居小屋が平野町に」「三十石船のことをあれこれお話したい」などなど…。情報提供のお申し出を多数いただきました。ありがとうございます。(平野)
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投稿者 tategaki : 13:26| コメント (0)| トラックバック (0)
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