2011年09月29日

「八軒家かいわい検定」
解答と解説

第二回・中級編(問題のみはこちら
八問以上正解の方には、「八軒家かいわい上席博士」を名乗っていただきます。
※第一回・初級編の問題はこちら

第一問
大阪中之島には現在二十四(天神橋、難波橋はそれぞれ南北2本と勘定)の橋が架かっています。八軒家浜を徒歩で出発して、同じ橋を二度通らずにすべての橋を渡って、また戻ってくることはできるでしょうか?
注:地図(左)にある天満橋は含みません。また、中之島公園内のバラゾノ橋は通路の一部とします。

解答:できる。
解説:ケーニヒスベルク問題におけるオイラー氏の解法によれば、第一問はA図で示したグラフ(連結グラフ)が一筆書きできるかどうかに置きかえて解くことができます。

↑中之島の地図を、頂点=一つながりの通路を1点に縮めたもの、辺=橋として連結グラフで表したもの。

一般に、連結グラフは下記1)2)のいずれかのときに限り、一筆書き可能となります。

1)すべての頂点につながっている辺の数が偶数 → 運筆が起点に戻る場合(閉路)
2)辺の数が奇数である頂点の数が2で、残りの頂点は全て偶数 → 運筆が起点に戻らない場合(閉路でない路)

中之島問題は1)の場合にあたりますこの場合、起点と終点が同じA点(閉路)となります。従って、解答は「できる」。

【補足1】
中之島内にある「バラゾノ橋」を条件に加えるとB図となり、この場合は2)。B(またはC)を起点、C(またはB)を終点として、一筆書き可能です。ただし、出発点に戻ってくることはできません。

【補足2】
中之島外にある天満橋を加えると、どうなるでしょう?考えてみてください。A図の場合とB図の場合では、答が違います。

→八軒家かいわいマガジン「中之島かいわい蔵屋敷物語」

第二問
二〇〇九年、八軒家からほど近い瓦町で発掘された八世紀の建物跡から、火舎(かしゃ)と呼ばれる緑釉陶器片(写真)が出土しました。さて、この火舎はいったいどんな用途に使われたものでしょう?

解答:2)喫茶
解説:筆者の記憶によれば、茶(喫茶の習慣)の伝来は鎌倉時代、臨済宗の祖・栄西が留学先の中国(南宋)から持ち帰ったとされています(ウィキペディアにもそう書いてあります)。ところが最近では、もっと古く奈良時代にはすでに茶は飲まれていたとする説が有力(注一)で、今回の「火舎」もそれを裏付ける証拠だとされています。

「火舎」とは、特殊な火入れで湯沸しに使われたとみられ、全国で十数例しか知られていません。建物跡は当時の海辺に近く、瓦の破片もあったことから、難波津にかかわる公的施設の可能性があり、火舎もそこで使われたとみられています。

...それにしても茶道具とは!しかも難波津!発掘現場(瓦町)はわが八軒家にほど近く、かいわいと称してもおかしくない位置にあります。「大坂城下町跡」は幾度かの発掘事例があり、今回は二〇〇九年の発掘時の成果(注二)です。同現場では、これまでに古代・中世の土師器・須恵器や近世の陶磁器・瓦などが発掘されています。

難波津がどこにあったのかはいまだに定説をみませんが、当会は高麗橋付近とする日下雅義の説に組みします。高麗橋は発掘現場(瓦町)から北へ約三百メートル、八軒家から西へ同じくらいの距離。遣唐使として難波津から船出した空海や最澄も、この地で茶をしばいて潮待ちしていたと想像するだけでも愉快です。
→八軒家かいわいマガジン「津の国ものがたり 難波津」

(注一)巽惇一郎「日本における茶法の開始」(新版古代の日本6近畿2)1991
(注二)岡村勝行「なにわの海に臨む、謎の古代建物」(大阪文化財情報 葦火144号)2010


↑「葦火」144号に掲載された緑釉火舎および発掘現場。

第三問
明治初年の八軒家船着場を写した貴重な写真(左)には二基の常夜灯が写っています。この常夜灯は、昭和初期の治水改修工事のため船着場が埋め立てられた時に、ある神社に移設されました。さて、その神社とは?

解答:1)生国魂神社
解説:この常夜灯は三十石船の運行を独占していた「過書方・伏見方三拾石沖合中」が万延元年(一八六〇)建てたものといわれ、現在生國魂神社の北門前に移設されています(写真)。この組合にはもちろん八軒家の旅籠も名を連ねており、同じ境内にある「願主八軒家 御神燈」にもその名が刻まれています。

↑常夜灯(幕末散歩より)


↑御神燈に刻まれた願主。京屋忠兵衛、大和屋利兵衛、堺屋源兵衛、堺屋源八など(幕末散歩より)

ところで、問題の写真後方に写っている旅籠は、明治初年の水帳(登記簿)によれば、右から「ます屋」「嶋屋」「いずみ屋」となっています。「いずみ屋」は、幕末に新選組と関係の深かった「京屋」の後進と思われます。もっと詳しくお知りになりたい方は、八軒家かいわいマガジン「新選組の大坂の常宿、京屋忠兵衛とは?」で。

第四問
土佐堀通りの熊野街道の碑のある南北の筋を「お祓い筋」といいます。当会のオフィスもこの筋沿いにあります。さて、「お祓い筋」(ヲハライスジ=写真)の命名に最も関係の深い人物は、誰でしょう?

↑文久三年 萬寿大阪細見図(一八六三年)より

解答:4)豊臣秀吉
解説:生國魂神社は、元は現在の大阪城付近にあり石山合戦で焼失、豊臣秀吉が大阪城を築くにあたり現在の地(天王寺区生玉町)に移したといわれています。江戸時代の夏祭は「お祓い」と称し六月二十八日(旧暦)に行われていました。本町橋のたもとに行宮があり神輿が渡御します。この道筋を「お祓い筋」と呼んだわけです。渡御のきっかけを作った人物が、豊臣秀吉というわけです。

「生國魂神社の夏祭り」
生國魂神社は、石山崎(現在の大阪城付近)に生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)を祀ったのが始まりとされる延喜式名神大社である。石山合戦の時焼失したが、天正11年(1583)豊臣秀吉が大阪城を築くにあたり現在の地に移したといわれる。本殿は生國魂造と称し、神社建築上他に例のない様式であり、天正年間の豪壮な桃山文化の遺構が鉄筋コンクリート造りのいまにも伝えられている。
 生國魂神社では一年を通じていろいろな行事が行われるが、中でも圧巻は、7月11日・12日の夏祭りである。
 生國魂神社の氏地は天王寺区・中央区からなり、それぞれ、子供神輿(みこし)・獅子舞い・枕太鼓などが出され、町は祭りの雰囲気でいっぱいになる。東地区には行宮(あんぐう)があり、12日には「渡御祭」が行われる。今では交通事情のため、自動車での「お渡り」になっているが、戦前は千数百人の行列の「お渡り」であったという。枕太鼓を先頭に、神官・役員・御羽車(おはぐるま)等が車で氏地を回り行宮へ行き、氏子の疫病退散・厄除け開運を祈る。(大阪市)

一説として、大阪城天守閣「豊臣期大坂図屏風」図録によると「秀吉は大坂市中にあった御殿の前をとおらせてまで、好んでこの行列(住吉大社の夏祭り・大祓いの行列―注)を見物したという。これにちなんで御殿前の道が御祓筋と呼ばれたともいう。その御殿は京都聚楽第から移してきたもので、明治初年まで聚楽町の地名が残っていた(現、中央区粉川町)」とのこと。惹かれる説ですが、通りがちょっと違うような?

↑住吉大社の夏祭り(荒和大祓神事)の行列が賑わしい(大阪城天守閣「豊臣期大坂図屏風」図録より)。

→八軒家かいわいマガジン「まずは古地図でデジタル散歩」

第五問
源氏物語・須磨の帖には、光源氏が須磨に下る際に「かいわい」を通過する描写があります。さて、そこに登場する歴史上の「かいわいランドマーク(陸標)」とは?

解答:3)大江殿
解説:問題の箇所は、原文では「大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、 松ばかりぞしるしなる」となっています。「大江殿」は、伊勢の斎宮が帰京の際にお祓いをする建物です。父桐壺帝亡きあと、政争を危惧した源氏は須磨での隠居生活を選びました。都落ちする貴公子の目には、往時を偲ぶすべもない荒れ果てた「大江殿」が、今の自分の境遇を暗示しているように見えたのでしょう。

この「大江殿」がどこにあったのかというと、1381年長慶天皇の作とされる「仙源抄」(『源氏物語』の注釈書)に「大江殿は渡辺橋の東の岸に昔駅楼ありけり 今も楼の岸という」とされています。「渡辺橋」は現在のそれとは違って、天満橋と天神橋の間あたりに架かっていたとする説が有力。「楼の岸」は石山合戦(一五七〇〜一五八〇)の時に蜂須賀小六が功を立てたとされる川岸の高台。となると、これはズバリ、八軒家南の高台にある「北大江公園」として間違いないでしょう。


↑北大江公園に通じる「八軒家浜船着場跡の近くにある石畳の階段」(大阪市「中央区の都市景観資源」より)。→八軒家かいわいマガジン「熊野詣もここから」

ところで、源氏物語ではもう一箇所、かいわいの登場するシーンがあります。

御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、「今はた同じ難波なる」と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを(澪標)
御社をご出発になって、あちこちの名所に遊覧なさる。難波のお祓い、七瀬に立派にお勤めになる。堀江のあたりを御覧になって、「今はた同じ難波なる」と、無意識のうちに、ふと朗誦なさったのを(渋谷栄一訳)

住吉詣で偶然に元カノ(明石の上)と遭遇し動揺する源氏。「今はた同じ難波なる」とは、百人一首にもみえる元良親王の歌で、上の句の「わびぬれば今はた同じ難波なる」からとられています。源氏の心中にはもちろん「身をつくしても逢はんとぞ思ふ」という下の句が隠されていることでしょう。

さて、「堀江」ですが、これも現在の堀江(地名)とは違います。「日本書紀」仁徳天皇十一年十月条に「堀宮北之郊原 引南水以入西海、因以号其水堀江」とある、あの「難波の堀江」、掘削された運河の名前です。その運河がその後成長して、今では「大川」(八軒家かいわい)になったと信じられています。源氏の頃は、流域に葦の生い茂る島々が散らばって見通しが悪く、澪標(みをつくし)なしでは航路を辿ることも難しかったようです。堀江については、八軒家かいわいマガジン「津の国ものがたり 難波津」で。

第六問
土佐堀通りから南へ三つめの通り「釣鐘町」は、大阪を代表するある企業の創業者が生まれた町です。さて、その企業とは?

解答:1)サントリー
解説:サントリー創業者である鳥井信治郎は明治十二年(一八七九)大阪中央区釣鐘町で生まれました。父は両替商や米穀商を営んでいました。母は信心深い人だったといいます。明治四十年(一九〇七)に甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」を発売。同四十五年には店舗を中央区住吉町へ移します。商品名を染め抜いた行燈をずらりと店の周辺に吊ったり、社員に赤玉法被を着せたりとユニークな宣伝活動が評判を呼びました。発売当時の価格は1本(550ミリリットル)で33〜39銭と、米1升が10銭という時代にあって、贅沢品でした(「楽天」より)。現在価格で3000円ぐらいでしょうか。

↑大ヒットした商品のポスター

第七問
大江橋、淀屋橋、難波橋など現在の大阪八百八橋を代表する橋の架橋費用は、ほとんどが大阪市が興したある事業の収益によって賄われました。さて、その事業とは?

解答:2)鉄道
解説:明治三十六年(一九〇三)鶴原市長が、市会に置いて「電気鉄道市営主義」を宣言。市街鉄道(市電)事業を公営化。これにより、市外からの通勤者が多く税収が伸びない大阪市の財源を確保し、市電の敷設工事とともに道路や橋など都市インフラへの投資が可能になりました。第三期敷設(一九一一年開通)では、一挙に42もの橋が架けられました。明治二十年(一八八七)頃には200足らずだった市内の橋は、大正末期には1600にも達しています。→八軒家かいわいマガジン「水の都大阪に市電が走った日」


↑大正時代の絵葉書「難波橋(大阪名所)」

第八問
現在の大阪城は、豊臣期の天守の忠実な復元を目指し、昭和六年(一九三一)に建てられた鉄骨鉄筋コンクリート造の永久建築で、今年復興80周年を迎えます。内部の階層も豊臣期に倣ったものですが、さて、内部は何層になっているのでしょう? 

↑古川重春(大阪市建築課・当時)による復元図。

解答:3)八層
解説:最も信頼できる同時代資料は、ポルトガルの宣教師フロイスによる「日本史」です。その中の「大坂城と新市街の建設について」(第二部六六章)には次のように書かれています。

...筑前殿は、まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。(略)もっとも主要な城に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた。八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む廻廊がある。

→大水都史雑記帳「大坂城・八層説の正体」


↑余談ですが、当会のある島町は、路上から大阪城と生駒山を同時に眺めることができる唯一の通りです。
わたのへや 大江の岸にやとりして 雲居にみゆる生駒山かな(良暹)

第九問
かつて京街道の起点として賑わった京橋。今は見る影もありませんがこの京橋に寄り添って、大きな歩道橋が架けられています。この橋には、天正十三年(一五八五)に東横堀に架けられたとされる幻の橋の名前が冠されていますが、さて、その名とは?
解答:1)大坂橋
解説:大正十四年(一九二五)に東横堀川の川底から「大坂橋 天正拾三年」の銘が刻された擬宝珠が見つかりました(終戦の混乱時に行方不明になっています)。しかしこの「大坂橋」という名の橋は過去の文献などに見当たらず、いまだにその所在などは分っておりません。幻の「大坂橋」の名前は、昭和四八年(一九七三)大阪城公園と毛馬桜宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋として390年ぶりに復活。→八軒家かいわいマガジン「浪速の橋ものがたり 京橋」


主橋梁部は、方杖式ラーメン橋と呼ばれるユニークな形式で、橋上には橋名由来碑(写真)が設置されています。天満橋駅(京阪/地下鉄)から歩いて5分、日経新聞本社ビルの横。大阪城天守やOBPの高層ビル群を間近に臨める、絶好のビューポイントです。

ケンチクカ日記じゃらんじゃらん(真島元之)より

第十問
江戸時代を通じて、八軒家は船着場として名を馳せた場所ですが、それ以外にもある事で有名になった場所でもあります。さて、その「ある事」とは?

↑答えはこの絵の中に・・・

解答:3)蚊がいなかった
解説:文政七年(一八二四)刊行の澱川両岸勝景図会「八軒家の舟着 市之側の青物」にはこんな歌が採られています。

空海の
ふうじたまひし八軒家に
蚊のなくやうな
舟上がり人

弘法大師(空海)の霊力によって蚊が封じ込められた八軒家であるのに、舟の乗降客のうるささといったら、まるで蚊の大群が現れたようだ、というのです。つまり、この時代、八軒家は「蚊がいない霊場」として有名だったわけです。
→八軒家かいわいマガジン「ターミナル八軒家」


↑「澱川両岸勝景図会」
桜宮付近から渡辺橋に至るまでの大川沿いの景色と風俗人物を、川を下るに伴って移ろう四季の中で彩色で活写した地誌で、船場方面から天満・堂島方面を望む構図を採っている。文・画ともに大坂の暁鐘成(あかつきのかねなる)の手になるもので、文政七年(一八二四)正月に京都書坊本屋宗七、大坂書坊河内屋木兵衛・同太助・同平七より刊行された(大阪歴史博物館)。

投稿者 tategaki : 11:07| コメント (0)| トラックバック (0)

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