2010年01月22日

百五十年前、
竜馬がすぐ近所を歩いていた。

時代が求めているのだろうか。竜馬ブームが爆発している。
「日本を今一度せんたくいたし申し候事にいたすべく」と坂本竜馬は決意を述べている。
平成のいま、この国を建て直すのに、けちなマネーロンダリングなどは、もってのほか無用のことだ。

NHK史上空前の番組宣伝のききめあってか、大河ドラマ竜馬伝が快調な滑り出しと聞く。ぼくも、マウスをあやつって、竜馬像を描いてみた。偉丈夫だが、色黒く、ちじれ毛だったらしい。似ても似つかぬが、八軒屋船着き場オリジナルのTシャツに仕立てようという魂胆だ。

というのも、坂本竜馬と、ここ天満八軒家は縁が深い。
百五十年前の文久年間、うちの事務所のある八軒家浜かいわいは、新撰組、志士たちの面々が肩で風きって闊歩していたのだ。当時の情景を、司馬遼太郎は、「竜馬はゆく」につぎのように描いている。

天満八軒屋は、伏見へ上る淀川船の大阪駅になっている。天満橋と天神橋のあいだの南岸の地で、川ぶちに船宿がぎっしり軒を並べ、京大阪をのぼりくだりする旅客でにぎわっていた。
そこに京屋という船宿がある。
京屋端新撰組の御用宿で、将軍の大阪滞在中は、ここに一小隊が駐屯し、上下する旅客をあらためていた。

黒木綿の紋服を着た長身の武士が、京屋のとなりの堺屋という船宿からでてきた。まぎれもない坂本竜馬である。

映画の一コマのように、竜馬が船宿から姿をあらわすのは、ここのビルから歩いて3分。眼と鼻の先だ。
土佐堀通からお祓い筋にあがる角あたりに、竜馬の定宿「堺屋源兵衛」が、すぐそばに新撰組の定宿「京屋忠兵衛」が軒を連ねていた。
高倉筋と古い地図にみえるが、北大江公園に上がる石段に、常夜灯が建てられていたが、(今は谷町9丁目の生国魂神社に移転)その寄進主に堺屋源兵衛、京屋忠兵衛の名がきざまれている。

「竜馬がゆく」には、土佐からはじめて大阪へ出た日の竜馬が描かれている。
竜馬は、その晩、高麗橋で暗がりからいきなり辻斬りに襲われる。取り押さえてみれば、同郷の岡田以蔵だった。後年恐れられた「人斬り以蔵」である。「事情は、旅籠できこう」と、辻駕籠に押し込んでついた先が、八軒家の船宿「京屋冶郎作」方、とある。
その京屋は、間口11件の大きな船宿だったそうで、京都伏見の寺田屋と業務提携していたと伝えられている。

ついでながら、船宿が軒を連ねていた土佐堀通りから、お祓い筋の上がり口に、「熊野かいどう」の石碑が建っている。
古代、ここらあたりは、すぐ海で難波津と呼ばれ、アジアからの船の出入りする港だった。八軒家船着き場は、平安時代から、淀川を利用する熊野詣のルートで、京都と大阪を船で結ぶ中継点だった。

Tシャツ用に、いちびって、いくつか図柄を考えてみた。イケメンな竜馬の背景は、幕末の錦絵師、国貞の描く名作「八軒家夕景」だ。川向うのはるかかなたには、箕面山系がみえる。
いずれ気が向いたら、大河ドラマ「竜馬伝」の好評なうちに、Tシャツに刷りたいのだが。どうなるか。

(南斎)

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2009年12月03日

まだまだ続きます。
消えた天神橋?

さて、京橋です。大坂城天守閣編「豊臣期大坂図屏風」(大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭締結記念展図録)によれば、「屏風」の橋を「天神橋」(第三扇)「天満橋」(第四扇)としています。「天満橋」のほとり、「八軒家とおぼしき船着場」(左図、河岸の白い部分)では船から荷物が揚げ降ろされていると解説しています。


↑豊臣期大坂図屏風・第一扇〜第四扇(部分)

その根拠は、次のフロイスの記事に依っています。

 大坂付近には一河川があり、都に赴くには船でその川を航行せねばならなかったが、夥しい群衆が往来したので、通行はこの上なく困難であった。乗船は人々を捌ききれなかったし、各人は一定の船賃を払うことを余儀なくされたので、貧乏人にとっては川を渡航することは容易なことではなかった。
 だが筑前殿は、そこに非常に美しい木造の橋を構築させて、そうした障害を除去したので、昼夜を問わず人馬はなんの苦もなく川を渡れるようになった。

‐フロイス「日本史」第二部六六章(「完訳フロイス日本史」中公文庫による)

大阪城天守閣さんは、この「非常に美しい橋」を「天満橋」と見たわけです。架橋年代は一五八六年以前(後述)です。そして、一五九四年「天神橋」架橋の史実をも取り入れて、「屏風」には両橋が描かれているはずだ、と推理したわけです。付け加えれば、他にそれらしき橋が見当たらないことから、京橋はまだなかった、となるはずです。

ここで再び、われらが松村先生に登場願います。松村先生は「大阪の橋」のなかで、フロイスの記事に触れ、「大川に架けられたものと断定することはできない」と慎重な態度をとっておられます。その箇所を引きます。

〈略〉この橋は後の天満橋に近い位置に架けられたと推定されている。架橋年代は明確でないが、この記事の直後に大坂本願寺の建設のことが書かれているので、架橋は天正一四年(一五八六)以前のことであると推定される。
 ただ、この橋が都へ行く人々の利便をはかって架けられたものであるとすれば、旧の大和川を渡る京橋の位置であると考えてもよく、大川に架けられたものと断定することはできない。

‐松村博「大阪の橋」(松籟社)浪華三大橋・天満橋より

どうです。松村さんの推理の方が理にかなっているとは思いませんか。フロイスの記事には続きがあって、松村先生ご指摘のように大坂本願寺建設のことが書かれてあります。

 筑前殿は〈略〉大坂の仏僧(顕如)に対しては、彼が悪事をなさず、なんらの裏切りなり暴動をなさぬようにと、川向うにあたり、秀吉の宮殿の前方の孤立した低地(中之島、天満)に居住することを命じたが、その住居に壁を巡らし濠を作ることをゆるさなかった。
‐フロイス「日本史」第二部六六章(「完訳フロイス日本史」中公文庫による)()内は訳注。

さあ、どうです。「筑前殿の架橋」が「天満橋」であれば、天満橋の南にあるはずの大坂本願寺(大谷本願寺も)が「川向こうの、孤立した低地」にあることをどう説明すればよいのでしょう。「日本史」の訳者にしても、中之島とn中島(天満)をいっしょくたにするなど土地勘のない方が訳されたとしか思えません。ちなみに大坂本願寺は一五九一年に京都へ所替されています。

というわけで、「右が天神橋、左が天満橋。京橋はまだなかった」(大阪城天守閣)説もいよいよ怪しくなってきました。

それはともかく、この「屏風」には、われらが「八軒家浜」(その前身)が描かれていることは疑いようがないでしょう。(津川)

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2009年12月02日

続きます。
消えた天神橋?

前稿「消えた天神橋?浪華三大橋の謎」では、「豊臣期大坂図屏風」(以下、「屏風」)では大川にかかる橋が一橋しか描かれていない理由を次の三つうちどれかと推理しました。

一。従来誤りとされた「大坂冬の陣図屏風」の記述を正しいとする。すなわち、豊臣期大坂図屏風に描かれた橋は「天神橋」である。「天満橋」はまだなかった(あるいは、架かっていた橋が洪水で落橋した)。
二。橋は「天満橋」。屏風に描かれている大坂は一五九四年よりも前である。
三。左が天満橋、右が天神橋である(大坂城天守閣編集の展覧会図録による)。京橋はまだなかった。

ところで、「屏風」をよくよく眺めてみると、図の中央部に駕籠に乗った武将(第四扇)と門の外で待つ母子一行(第五扇)が描かれています。


↑豊臣期大坂図屏風・部分

グラーツ博物館の解説によれば

三の丸は、慶長三年(1598)から翌年にかけて普請された。その一郭である篠の丸といわれる曲輪は、二の丸への京口門を防禦するための構えである。巨大な石垣と門に囲まれたこの曲輪には、駕籠に乗った大名が見え、供侍と小姓を従えている。


とあり、按ずるに、大名は秀吉で、伏見城から御座船(画面下)に乗って大坂城まで下ってきた淀君と秀頼を三の丸城外まで迎えに行くところであると解釈できます。

もし描かれている大名を秀吉とすれば、「屏風」に描かれた大坂は、早くとも三の丸(一五九八年)以後、遅くとも秀吉の没(これも一五九八年)以前、ずばり一五九八年ということになります(このとき秀頼は六歳で、すでに元服は済ませていました)。ということで、二番目の説はハナから採り上げる必要がありませんでした。

ところで、一番目の「大坂冬の陣図屏風」天神橋説とは、東京博物館蔵の「大坂冬の陣図屏風」では「天神橋」だけに橋名の書き込みがあることから来ています。他の橋には書き込みはありません。


↑大坂冬の陣図屏風・部分

従来の説では、これを誤りであるとし、次のように説明しています。つまり、大坂冬の陣勃発の一カ月前(一六一四年八月=旧暦)の洪水で「天満の橋落つ」という記述が「当代記」にあり、「天満の橋」とは「天満橋」であり、ここが交通の要所であったことから落ちた天満橋はすぐに架け替えられたはずだというのです。

仮説の上に仮説を重ねていて、まるで邪馬台国○○説を聞かされているような気分です。にわかには信用できません。これが本当なら、「天神橋」はどこへ行った?

ということで、一番目の説にもどると、天満の橋の落橋は一六一四年(当代記)のことであり、「屏風」の時代とは合わない。それ以前に天満の橋が落橋した記録がないことから、もし「天満橋」がすでにあったとするなら、「屏風」には「天神橋」と並んで描かれているはずである。従って、結論は次の二つに絞られます。

一、「屏風」に描かれた橋は「天神橋」である。「天満橋」はまだなかった。=八軒家かいわい説
二、左が天満橋、右が天神橋である。京橋はまだなかった。=大坂城天守閣説

二に関して、「京橋」については次回で。(津川)

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消えた天神橋?
浪華三大橋の謎

松村博先生の「大阪の橋」(一九八七年 松籟社)には

天満橋・天神橋・難波橋は江戸時代以来、大坂の町にとって最も重要で、最も親しまれてきた橋である。それでいつしかこの三橋は浪華の三大橋と呼ばれるようになった。

と、あります。
それでは、江戸時代以前にも三橋そろっていたのか、というと

その創設年代は明らかではない。豊臣時代か遅くとも江戸時代初期には架設されていたらしい。(同)

ぐらいしかわかっていません。
松村先生によると、三橋のうち、はっきりした創架記録が残っているのは天神橋だけということです。天満宮会所支配人の大村由己の尽力により、文禄三年(一五九四)一一月に完成したとの記述が、天満宮社伝に載っているそうです。

そこへ今度の「豊臣期大坂図屏風」 。慶長年間(一五九六〜一六一五)の作といわれ、豊臣秀吉の絶頂期(一五八〇〜一五九〇年代)の大坂を描いたといわれるこの屏風では、大川に架かる橋は一橋だけ(第三扇)。関大グループの解説では、この橋は「天満橋」らしいのです。


↑豊臣期大坂図屏風・第一扇〜第四扇(部分)

屏風には、京街道の起点である「京橋」、東横堀に架かる「高麗橋」は確かに描かれているのです。しかし、天満橋とされる橋より西の大川には一つの橋も描かれていません(右図)。右端に描かれている帆船は外洋船らしいことから、これより西は大阪湾まで橋が架かっていなかった可能性もあります。屏風には当時(豊臣秀吉の絶頂期)の大坂が忠実に描かれているとするなら、これはいったい?

導かれる結論は三つ。
一。従来誤りとされた「大坂冬の陣図屏風」の記述を正しいとする。すなわち、豊臣期大坂図屏風に描かれた橋は「天神橋」である。「天満橋」はまだなかった(あるいは、架かっていた橋が洪水で落橋した)。
一。橋は「天満橋」。屏風に描かれている大坂は一五九四年よりも前である。
一。左が天満橋、右が天神橋である(大坂城天守閣編集の展覧会図録による)。京橋はまだなかった。

難波橋については「大坂冬の陣図屏風」に描かれていること以外は不明としておきます。
(津川)

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2009年10月30日

「水都、わが町」を考える。
どの町にぼくは住んでいるのか。

北大江公園、恒例「たそがれコンサート」秋の大イベントは、めでたく終了した。ぼくの不出来なチラシがあちこちの店先に張られて、ま、無事すみました。





この付近は、楽器関係の工房が多く、出入りするミュージシャンも多い。プロの演奏家のみなさんが、ボランティアで、客寄せチンドン屋から、やさしい解説付き名演奏など、大車輪の活躍だった。

チェロの無伴奏の協奏曲はちんぷんかんぷんだったが、弾く弓は、馬の尻尾の毛だと教えてもらった。

それも、オスの尻尾の毛でないといけない。後ろ足の付け根のしっぽへの尿のかかり具合がオスとメスで違うそうで、なるほどとなっとくした。

フルートとハープの演奏も、オンチのぼくにもやさしくわかるような日本の歌だ。「見あげてごらん、空の星を」も演奏され、がらにもなく、思わず空をみあげると、ここはビルの谷間で、真っ暗なせまい空に星はひとつもみえなかったのは残念。



隣のイタ飯食堂もおおはりきりで、店の前で焼く、もうもうと煙を上げるサンマやイカのバーベキューの匂いが、演奏会場まで流れてきた。

当店何よりの快挙は、店のトイレを公園の観客に開放したことだ。





その太っ腹な英断に感謝して、オーナーシェフの肖像画をそそくさと描いて、ここに贈呈することにした。本人は、不揃いな歯並びが不満げなのだが。



ところで、自治体が後押ししている「町づくり」とはなんだろう。「わが町」は、織田作之助の名作だが、あの小説にでてくる「がたろ横丁」のような町は、大阪市内に残っているのだろうか。どこそこの神社の氏子も神輿をかつぐ若い衆の数がたりないときく。






八軒屋界隈。この町内の住民は、あたらしく建ったマンション住まいがふえている。住民の大多数は、郊外やよその町から、ここのオフイスや店に通勤する、ぼくのような「通い」の住民だ。マッチ箱のような公園の四方が、マンションと当社のようなオフイスビルに囲まれているからだ。

戦災で焼けたこともあって、ほとんどの住民が新参者だろう。町づくりといっても、どだい、イタリアの田舎の町のように、教会があって、広場があってといった「コミュニティ」の態をなしていないのはしかたがない。






ぼくは大阪で生まれて地方で育った。また、大阪に来て、半世紀以上たつのに、ぼくはどこのコミュニティに属しているのかわからずにいる。

多感な時期を過ごした田舎に帰っても、浦島太郎だし、今住んでいる郊外の家の近所に、ぼくの居場所はない。
つきあいといえば、長年、会社と仕事を通じて知り合った仲間(むかしの得意先も)とのそれだ。

しかし、この北大江公園界隈もなんだか、いつのまにか、渡来してきたぼくが「帰化」してしまったおもむきもある。ぼく個人は、区税をはらってはいないよそものだ。三代続いた家はほとんどないそうだ。みな戦後集まってきたよそものだし、親しく付き合っているわけでもないが、公園の一角に、ビルを借りて、ぼくも30年以上根をおろしているから、住民には違いない。






ぼくの顔はしられていないが、ぼくの下手な絵がメディアになっているみたいでもある。不思議な渡来住民である


(南斎)



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2009年10月20日

八軒家で虎造浪曲コンテスト

虎造節保存会理事の新九狼(しんくろう)さんからの提案です。

新九狼さんから届けられた当会へのお便りを一部引用して、紹介させていただきます。

■■■
始めまして、新九狼(しんくろう)と申します。
「八軒家かいわいマガジン」を見てメールさせていただきました。
デザインも洗練された大変素晴らしいサイトが出来ていて、びっくりしました。

私は八軒家浜で虎造浪曲コンテストを開こうと思い、あちこち働きかけているものです。
ご存知の通り、八軒家浜は広沢虎造さんの浪曲でも有名で、ここで浪曲コンテストを開くことによって、八軒家浜の活性化・アピールを行い、また歴史を語る「語り物」音楽の復活ができないかと考えています。

現在以下のブログにて活動経緯を紹介しています。

「桜の花が咲く頃大阪八軒家浜で虎造浪曲コンテストを開こう。」

水路の発達した大阪はかつて水の都と言われました。近年大阪の水辺の賑わいを取り戻そうという気運が高まり、有名な八軒家浜船着場も復活開港しました。この八軒家浜で、皆様の協力のもと二代目広沢虎造師匠の浪曲コンテストを開くための活動を実況するブログです。
■■■

ええやないですか。ええやないですか。うちの会でもせぇざい応援させてもらいます。(津川)

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2009年08月28日

あれはなんやろ?
八軒家浜に、アヒルがぷかぷか











天満橋のほとりの「川の駅」沿いに、でかい黄色いアヒルのおもちゃが、ぷかぷかと浮かんでいた。赤ちゃんがお風呂で遊ぶおもちゃのアヒルだ。木曜日の午後気づいた。
夏の日差しに照り返す黄色が、川面にあざやかに映っている。ゴム製の巨大なアヒルの子は、じっと動かない。

水都再生とはいうものの、殺風景なコンクリートで固めた岸辺と、アヒルのとぼけたバカでかさが奇妙に、いい感じで調和していた。まったく場違いで、まったく大阪らしくないところが、ユーモラスでうれしい。

なのに、事前のPR不足か。見物客がいない。目ざとく見つけた人たちが携帯で撮影しているだけ。











ネットで調べてみたら、この途方もないアイデアはオランダ製だった。やっぱりな。

オランダの作家ホフマン氏のインスタレーションらしい。かれは、すでにベルギー、フランス、ブラジルで、公共空間で巨大な作品を展示する活動を行ってきたという。

このアヒルの子は、「水都大阪2009」と「日本オランダ修好400年」を記念して登場した。大阪とオランダは、適塾で教えられた蘭学でつながるのかな。



翌日、しっかり写真を撮ろうと、カメラをぶらさげていってみた。

ありゃ、どうしたことか、被写体は影も形もない。

まさか週末をひかえて、もう店じまいということはないだろう。眼を皿にして探したが、黄色いアヒルは、消えた。



川の道駅のガイドさんにきいてみたら、空気が抜けるる不具合でぺちゃんこになったらしい。目下修理中とのこと。川面から忽然と消えたはずだ。



空気を入れなおして、また、元気な顔をみせてほしいものだ。

あれはすごかったでえ。などと、都市伝説として、誰も見たことのない幻のアヒルにならんように。



世界のいろんな川で、この巨大アヒルの仲間が浮べられているという。大阪の次は、インドときいた。

物騒な世の中、いま、ベルギーの運河に浮いているアヒル君には災難がふりかかった。テロ攻撃?を加えたやつがいて、風船にでかい穴をあけたそうだ。嵐でやられて、ようやく帰ってきたばかりなのに。

ラジオオランダのネットによれば、おそろしいことだ、とても残念だ、と作者が大阪からコメントしていた。



このインスタレーションは、契約期間が過ぎればまもなく撤去される。

水都の住人であるぼくも、このどでかい、かわいいアイデアに敬意を表して、思い出に残るTシャツのデザインを思いついた。











ひょっとして、大川端に着水した幻のアヒル人形となるかもしれない。オランダからアイデアが飛んできたのだから、話題になるよと、お隣のイタ飯レストランの大将に見せた。











オランダへ向かって空高く舞い上がるアヒルなんかいいじゃないか、どう?水都2009記念のTシャツにしても、クッキーの箱に張ってもいいし。

ぴんと来ず、無反応。

おもろいアイデアなんだけどなあ。





それにしても、オランダ生まれのアヒルの子は、空気を満タンにして再び元気のいい姿をみせてくれるのだろうか。
大人は気付かずとおりすぎても、子どもたちは興奮してはしりまわっていたそうだ。(南斎)










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2009年07月24日

ビルの屋上で楽しむ天神祭

キタガワビルの同居人(日本SPセンターさん)より屋上「天神祭」パーティに招待されました。


招待状


同封のポスター、サービス券

天神祭は川向こうが本場ですが、八軒家かいわいでもあちこちのビルで屋上パーティが開かれているようです。キタガワビルの屋上も北大江公園を望みロケーションは抜群なんですが、、、


プレミアム手拭。モチーフは梅?でしょうな。

今日は24日。祭りは宵宮で船渡御も、もちろん花火もありません。25日は土曜日で会社が休みのためやむを得ず今日に繰り上げたんですな。う〜ん残念。おっと、タダ酒が飲めるのに贅沢は言えません。もっとも筆者は下戸ですが。

ところで、屋上と言えば、「日本で最初の屋上ビアガーデンは1953年に大阪市北区梅田でオープンしたニユートーキヨー大阪第一生命ビル店である」とウィキペディアにあります。大阪が発祥の地だったんですな。


おまけの写真です。

潜入レポートは後日。(津川)

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