2011年12月15日
戦国武将・島左近の屋敷は島町にあった!?
あっと驚く資料が、「平群史跡を守る会」事務局の村社仁志さんより、ご丁寧な送り状を添えて当会に送られてきました。その送り状の末尾には「貴会の所在地である島町に、嶋左近屋敷の伝承があることをお伝えしたく、ご連絡させて頂きました」とあります。
「目からウロコ」とはまさにこの事。会の発足(二〇〇五年)当時より、そういう伝説があったことは聞き及んでおりましたが、灯台もと暗し、資料文献にあたることもせず、ほったらかしにしておりました。
![]()
↑島左近肖像画。「帝国人名辞典」(1907)所収(ウィキペディアより)。
当島町が「島左近清興の大坂屋敷跡であった伝承?の信憑性について期待と確信?」と送り状の中で村社さんが控えめに述べられている部分について、当会でも裏付け調査を進めていきたいと考えています。
それとともに、広く読者の方からも情報を寄せていただきたいとの思いから、フェースブック「八軒家かいわいマガジン」上でも【かいわい伝説】のコーナーを新設し、その第一回として「島左近の大坂屋敷跡」をとりあげております。以下に再掲します。資料はすべて、村社さんから頂戴したものを引用させて頂きました。改めて御礼申し上げます。
■
【かいわい伝説】島左近の大坂屋敷跡:松屋町より東を島町という。この地は以前沼地にて芦繁茂し、最初、尾黒七郎右衛門氏の祖、この土地を得、芦を分け家を建つ(伊勢阿漕辺の人故に伊勢屋と称せり)。今の幼稚園東半分の土地にあたる。豊臣時代に一丁目二丁目半に至る北側に島左近の屋敷及び今の幼稚園西半に知恩院の一部、華頂宮の金銀貸付屋敷あり。尚いわゆる島町通りは高麗橋よりの貢物の使者の通路であったという(『北大江沿革史』(1921年)より抜粋)。
『多聞院日記』の記述Aの後半部分「嶋左近ノ内方法印ノ娘一段孝行、左近陣立ルスノ間越了」を今一度考えるに、英俊が「一段孝行」と表現するくらいであるから、北庵の娘は結構な道のりを「わざわざやって来た」のであろう。つまり左近夫妻は南都からある程度離れた場所に住んでいたと思われる。記録Bの天正二十(文禄元)年四月十日の時点では「今江州サホ山ノ城ニアリ」の通り、左近夫妻は佐和山城に居住していたと見て良い。しかし「今」という文字が付けられており、まだ佐和山に住んで間がないように思える。とすれば、天正十八年の時点ではまだ佐和山には居住していなかった可能性が高い。現時点では推測の域を出ないが、これらを併せ考えると、左近夫妻は当時京都または大坂にいたのではないかと考えたい。そうなると、屋敷は秀吉から与えられていると見るのが自然である。加えて京都東山には現在左近の屋敷跡と伝えられる料亭「道楽」が、大坂には左近の屋敷があったとされる島町(大阪市中央区)があり、これらとの関連も今一度注目されよう(『戦国浪漫』(坂本雅央)「嶋左近」→「徹底追跡嶋左近」「石田三成のもとへ(1)」→「石田三成の所在」より抜粋)。
■
(以上引用終り)
以下は、当会の(現時点での)追加資料および見解です。
ヤフー辞書で「島町」を検索すると以下の項目がヒットします(項目のみ。引用文略)。
1.しまちょう【島町】愛知県:岡崎市/岡崎城下-日本歴史地名大系
2.しままちいっちょうめ【島町一丁目】大阪府:大阪市/東区-日本歴史地名大系
3.しままちにちょうめ【島町二丁目】大阪府:大阪市/東区-日本歴史地名大系
出典の『日本歴史地名大系』では、島町一丁目は次のようになっています。
島町一丁目 (現)東区島町一丁目
石町の南にあり、谷町一丁目と同二丁目の間を通る高麗橋筋を挟む堅町。東から南北の善安筋・高蔵筋が通る。初発言上候帳面写はもと島町には丁目がなかったように記すが、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では西から一―三丁目の区別があり、同年水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)によれば当時当町は島町三丁目であった。島町が東から一丁目・同二丁目となった時期について、元禄六年(一六八八)増補大坂図には延宝九年(一六八一)町名改正とあり、大坂町内之内町名替り候写には元禄六年、元禄六年水帳奥書写(同上)には三丁目から一丁目に改称したため水帳を改めたとある。島町は「蘆分船」などに島屋町とあるので、開発商人の屋号に由来するのかもしれない。(以下略)。(『日本歴史地名大系』)
島左近伝説に早くも暗雲が立ち始めました。まず、この雲「島町=島屋町説」から吹き飛ばしておきましょう。
夏の陣で荒廃した大坂の復興のため、大坂城城主となった松平忠明は、信望厚い有力町人を元締衆として、彼らに町割りをさせ、また各町の町年寄には水帳(土地台帳)を作らせました。宝暦三年(一七五三)作成の『初発言上候帳面写』には、元締衆・町年寄りは、元和二年(一六一六)に忠明から惣会所を与えられ、再三にわたって寄りあい協議したとあります。徳川大坂の最初の町名は、住人たちが協議して決めていたようです。
島町=島屋町説の『蘆分船』は、別名「大坂鑑」「難波名所記」ともいいます。著者は一無軒道治(いちむけん どうや)で、延宝三年(一六七五)に刊行されました。内容は大坂および近郊の名所・旧跡・社寺などについての記述が七二項目にわたってなされ、それぞれに挿絵も添えられています。六巻六冊からなる大坂最初の本格的な名所案内記です(大阪市立図書館)。
![]()
↑蘆分船:難波名所 大坂鑑巻1 大江岸
大江浦。大江橋などと歌にもよめり。しかれども。所の人の説。くだくだしく侍れは。いづこを。証としかたし。今の真清水より。御城の前あたりを。惣名とせるなるへし。昔日。斎宮はしめて。伊勢へくたり給ふ時は。逢坂を越させ給う。帰京のときは。かならず。さだまりて。立田越を経て。大江の岸を。とまりとす。(略)
『日本歴史地名大系』にある「開発商人の屋号」を、当時の記録から探してみると、寛文十一年(一六七一)に大坂の飛脚問屋「島屋三衛門」が江戸の備前屋与兵衛らと謀り、両地間の金銀貨の逓送を開始し、金飛脚の看板を掲げた(『新修大阪市史』第三巻)とあります。
江戸時代を通じて飛脚問屋は、交通の便の良い八軒家周辺に集まっていましたから、「島屋」が「島町」にあったとしても不思議では無いのですが、逆に、「島町」にあったから「島屋」を名乗ったとも考えられます。前述のように、明暦元年(一六五五)の『大坂三郷町絵図』にはすでに島町の町名が記されいることから、後に、豪商の屋号「島屋」をもって通称したと考えるほうが自然でしょう。島町=島屋説はもろくも崩れ去りました。
百歩譲って、元締衆・町年寄が、「島屋」があったから「島町」と決めたとしてみましょう。これが「島左近伝説」と矛盾するかといえば、全然そんなことはありません。
徳川の治世になったとはいえ、元和二年(一六一六)は夏の陣の翌年です。大坂の町はまだまだ豊臣びいきに満ち満ちていたと思われます。ところが、徳川大坂城の築城(豊臣大坂城を一〇メートルも地下に葬った)例を見てもわかるように、江戸幕府は豊臣時代の痕跡を完全に消し去ろうとしていたように見受けられます。石田三成の一の家臣である島左近の名の継承は望むべくもない状況だったと思われます。しかし、左近の屋敷があった事実は後世に伝えたい―そんな町人の熱い思いを受け止めたのが、後に島町となる通りに店を開いていた豪商「島屋」であった可能性があります。
そうであれば、明暦三年(一六五七)の地図(=前掲)が「志まやまち」と、通称をわざわざ記している説明がつきます。「島町という町名は島左近の屋敷跡から採ったものではありませんよ。島屋から採ったものですよ」というように。
つづきます(津川)。
投稿者 tategaki : 13:40| コメント (0)| トラックバック (0)
