2010年12月21日

大坂城・八層説の正体

脇田修さんの『近世大坂の町と人』(人文書院 一九八六)に次のような記述があります。

豊臣氏大坂城天守閣は、屋根が五重、内部は六階・地下二階という大城郭であった(第二章「地中から現れた大坂城」より)。

この箇所に限ればとくに出典が示されていませんが、前後の記述から拾っていくと、基礎になった資料は「大坂夏の陣図屏風」「豊臣時代大坂城本丸指図(中井家所蔵)」「仙台伊達家に伝わる絵図」および「岡本良一さんや渡辺武さん、また宮上茂隆さんらの研究」「大友宗麟や宣教師らの筆」であると思われます。

この本の出版以後の新しい資料は、エッゲンベルグ城にあった「豊臣期大坂図屏風」ぐらいですが、この図の資料評価は本稿でも触れた通り。通説を覆すほどのものでは有りませんでした。となると、脇坂さんがまとめた「秀吉が築いた城」像は、とくに追加・変更を加えることなく現在でも通用していると考えてよさそうです。フロイスが「八層」と表現したのは、階層のことであったのかあ。


↑大坂夏の陣図屏風(右隻)

ところで、気になったのは黒田家伝来と伝わる「大坂夏の陣図屏風」です。ここに描かれた大坂城は、脇坂さんらにはかなり信頼できる姿であると捉えられておるようです。しかし、本稿では広島大学大学院の佐藤大起さんの説(PDF)をとり、「作図上のごまかしがあって、構造的に無理」と片付けておりました。

この屏風はこれまで、城の南にあった大御所・徳川家康の本陣を右端に描き、大坂城や北方の淀川水系を中央から左にかけて描いているため、城や天守は当然、「西」から眺めた姿であると考えられてきました。ところが、『天守が建てられた本当の理由』の横手聡さんによれば、これは作画上の演出で、本当は「城を南から眺めた姿で描いている」というのです。

横手さんがあげるその理由は。主に次の三つです。

一、天守の屋根にある唐破風

↑詳細は省きますが、これは「南北面」にあるのが正しい。

二、天守の窓の女性

↑戦況を眺めている=主戦場である南を向いているはず。

三、天守の四神

↑最上階の小壁にくっきりと「南の朱雀(鳳凰)」が描かれている。

つまり、城を時計方向に九〇度回転させて描いたのは、「戦場の俯瞰と城の正面(南)を同一平面で実現するための絵師の工夫」であるとするわけです。

そうであれば、「東西が平、南北が妻となるはずであるが、この屏風ではそれが逆に描かれている」のを「作画上のごまかし」とした佐藤説は考慮しなくてもよいことになります。とはいうものの、横手説をとれば、天守の屋根が東西方向に延びていることになり、他の絵画資料とは明らかに異なります。

ということで、以上を総合して、武者走りの有無や唐破風の有無にも注目すると、本稿で取り上げた他の絵図の模写ラインは

「豊臣期大坂図屏風」→「大坂城図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」

ということになりそうです。「大坂夏の陣図屏風」だけが特異です。そうして、横手説=天守の妻は東西面が正しいとすれば、「大坂夏の陣図屏風」の制作年はこれらすべての絵図に先行し、以後に描かれた豊臣期大坂城図の手本になったと推察することができます。意外なことに、再発見された「豊臣期大坂図屏風」の制作年代は、けっこう古いと思われます。

せっかくですから、ならべなおしてみましょう(津川)。

大坂夏の陣図屏風(南東面=横手説))※描かれた城の向きは画面左手より。以下同様

豊臣期大坂図屏風(東北面)

大坂城図屏風(北西面)

京・大坂図屏風(北西面)

大坂冬の陣図屏風(北西面)

投稿者 tategaki : 16:49| トラックバック (0)

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