2010年10月25日

ますます、わからない!?
秀吉が築いた城

秀吉築城の大坂城について、前回の考察では画像資料に頼ったために、『はっきりしているのは「五層」ということぐらい』と安直に考えてしまいました。従って、モンタヌス『日本誌』に掲載された有名な挿絵「大坂落城」を、城が八層であることから、あっさり捨て去っておりました。

ところが、フロイス『日本史』第四章(第二部六六章)の「大坂城と新市街の建設について」には、次のように書かれています。

(羽柴)筑前殿は、まず最初にそこにきわめて宏壮な一城を築いた。〈略〉もっとも主要な城(本丸)に秀吉が住んでおり、その女たちも同所にいた。八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む廻廊がある。※( )内は訳註。

え、八層!?これはまた、どうしたことでしょう。モンタヌス挿絵説、復活か!?このあたりをちょっと検討してみます。

かたや、モンタヌス(1625〜1683)の『日本誌』は「東インド会社から日本に遣わされたオランダ使節や宣教師の報告・日記など16 、17世紀の膨大な資料をもとに、海外で始めてまとまって日本を著述したもの」(雄松堂書店「大学図書館所蔵稀覯書紹介」)ではあるものの、「収録されている挿画の人々や風俗も実際の日本のそれとはかなりかけ離れており、想像によって描かれたものである」とされています。ところが、オランダ商館長の江戸参府日誌など公の文書を利用した記事も見受けられ、挿絵の「徳川大坂城」などはそれらの資料を駆使したかなり正確な復元図であるともいわれています。


↑モンタヌス『日本誌』挿絵「大坂落城」


↑モンタヌス『日本誌』挿絵「大阪城図」
『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌスが記した日本の地誌。一六六九年にアムステルダムで初版が刊行された。本の中には、徳川再築大坂城の正確な図が掲載されている。これは、オランダ東インド会社が入手した大坂城の図をもとにオランダ人画家フィングボーンズが描いた「大坂城図」(ハーグ国立文書館蔵)を、さらに簡略化して描き直したもの。モンタヌス自身は来日したことはない。画面の手前が西(大手)側(「テーマ展大阪城の歴史」図録より)。

こなた、フロイス(1532〜1597)の『日本史』は、「日本における布教史の編纂の執筆を命じられ、以後10年以上にわたって執筆を続け、時には1日に10時間以上の執筆を行った」(ウィキペディア)ということからわかるように、本人自ら見聞きした事項が中心で、記述の正確さには定評があるところです。

フロイスの『日本史』をモンタヌスが参照した可能性もあります。しかし、『日本史』は、1742年にポルトガルの学士院が同書の写本を作成して本国に送付するまで、マカオのマカオ司教座聖堂に長く留め置かれ、オランダ人のモンタヌスがこれを目にする(あるいは読んだ人から聞き及ぶ)ことはなかったものと思われます。

何が言いたいのかというと、『日本史』と『日本誌』は独立に「大坂城八層」説を唱えており、これを偶然の符合(つまり、どちらも間違った記述である)とは考えにくいということです。ついでに言えば、『日本誌』には(五層)徳川大坂城が正確に描かれているのに、秀吉大坂城をわざわざ八層にする必要もないのではないか、と。(津川)

投稿者 tategaki : 17:07| トラックバック (0)

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