2010年06月23日

秀吉が築いた城
ホンモノはどれだ?

豊臣時代の大阪城天守閣はどんな形をしていたのでしょうか?とりあえずウィキペディアにあたってみます。


↑現在の大阪城天守閣(北西方面より=二〇〇八年)※方角は画面左より記述(以下、同様)。

一五八三年(天正十一年)、安土桃山時代に石山本願寺の跡地である、上町台地に、豊臣秀吉が築城を開始した。完成に一年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、三重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は、絵画史料では外観五層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた華麗な姿で描かれている例が多く、それに則した復元案が出されている。大坂城の普請中に秀吉を 訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えた。(大坂城―Wikipedia)※強調は筆者

はっきりしているのは「五層」ということぐらいで、あとは同時代(?)に描かれた絵画を手がかりにするぐらいしか能がないようです。ということで、残されている絵画資料(ほとんどが屏風絵)に片っ端から当たってみました。景観年代の古いと思われる順に、とりあえずあげてみます。図六を除き天守のみの部分図です。


(図一)大坂城図屏風(北西面)
大坂城とその城下町を描いた屏風絵としては現存最古と推測される。景観年代=一五八五年〜一六〇〇年


(図二)豊臣期大坂図屏風(東北面)
原本は一七世紀後半にヨーロッパへ渡り、オーストリア・神聖ローマ帝国の貴族のエッゲンベルグ公の所有に帰した屏風。景観年代=一五九六年〜一六〇〇年


(図三)京・大坂図屏風(北西面)
左隻(京図)の上部には秀吉を神と祭る豊国神社が描かれている。つまり秀吉没後、秀頼時代の両都市が本図の主題。景観年代=一五九九年〜一六〇〇年


(図四)大坂冬の陣図屏風(北西面)
武内勇吉模写(平成二年)。原本は幕府の奥絵師をつとめた木挽町狩野家に伝来したものだが、それ自体も江戸後期の模写本で、原図は存在しない。景観年代=一六一四年


(図五)大坂夏の陣図屏風(西南面)
合戦後まもなく、福岡藩主黒田長政が描かせたものと伝えている。景観年代=一六一五年 ※現在の大阪城は、この図を基に昭和初期に復興されたもの。平成の大改修を経て現在の姿に=筆者註


(図六)モンタヌス『日本誌』挿絵「大坂落城」(北
面?)
『日本誌』はオランダ人牧師モンタヌスが聞き書きした日本の地誌。一六六九年初版。景観年代=一六一五年


(参考図)豊臣時代大坂城本丸指図
この図の原本は、江戸幕府の京都大工頭をつとめていた中井家で昭和三十五年に発見された二枚図のうち一枚。

けっこうありますが、天守が八層の図六はあげただけです。他の五つは、向きも形状も微妙に異なっています。さて、どこから手をつけたらいいでしょうね。幸いなことに、広島大学大学院の佐藤大起さんが書いた「豊臣大坂城天守を描いた屏風に関する考察」(PDF)という論文がありました。

佐藤さんは、図一・四・五の天守形状および参考図を基に、論をすすめています。その論点はおよそ次のようになります。

一、「大坂夏の陣図屏風」(図五)は、作図上のごまかしがあって、構造的に無理。
二、「大坂城図屏風」(図一)および「大坂冬の陣図屏風」(図四)は、構造的に無理がない。北面の付庇を描いている。
三、「大坂城図屏風」(図一)の付庇のある床は、一階の床より低い。「大坂冬の陣図屏風」(図四)では同じ高さに描かれている。
四、中井家所蔵「本丸図」によると、付庇が設けられていたと考えられる武者走りは、天守一階床から五尺下がっている。

これらの論点から佐藤さんの出した結論は

「大坂城図屏風」の天守は、構造的な問題がほとんどなく、北面の付庇という天守としては特異な点を描いていること、中井家所蔵「本丸図」と完全に一致することなどが特色である。「大坂冬の陣図屏風」は、「大坂城図屏風」の天守を直接または間接に模写したものである。

というものです。いかがでしょうか。

ところで、佐藤さんの論文には「豊臣期大坂図屏風」(図二)と「京・大坂図屏風」(図三)は出てきません。さて、この二つの資料評価はどうなんでしょう。佐藤さんの論点を参考にすれば、すぐに答えが出そうです。

一、両図とも構造的には「大坂冬の陣図屏風」(図四)に似ている。
二、「京・大坂図屏風」(図三)の二階の形状が「大坂城図屏風」と同じ。
三、「京・大坂図屏風」(図三)は北面の付庇を描いている。ただし、床高は一階と同じ。付庇だけが飛び出している。
四、「豊臣期大坂図屏風」(図二)は、形状が「大坂冬の陣図屏風」(図四)に似ているが向きが違う。付庇はない。

ということで、「大坂城図屏風」→「京・大坂図屏風」→「大坂冬の陣図屏風」→「豊臣期大坂図屏風」という模写ラインが見えてきました。(津川)

投稿者 tategaki : 16:19| コメント (0)| トラックバック (0)

2010年06月09日

消えた天神橋?
謎が深まる市街図屏風

「消えた天神橋?」シリーズ四回目です。

前回までは主に「豊臣期大坂図屏風」(左の図)に描かれた市街図を元に推理を組み立てました。今回は、当会の主張を補強すべく他の資料にもあたってみます。


図一 豊臣期大坂図屏風(八曲一隻)
景観年代=一五九八年(八軒家かいわい説)

この屏風の第三扇および第四扇にかかる橋それぞれを、エッゲンベルグ城(グラーツ州立博物館)の解説(PDF)では「天満橋」「京橋」、大阪城天守閣の解説(特別展図録)では「天神橋」「天満橋」としています。八軒家かいわい(当会)が出した結論は、前二者とは異なりました。確認のため三者の主張を再掲します(順番は一部入れ替えました)。

一、「屏風」に描かれた橋のうち、第三扇は「天満橋」、第四扇は「京橋」である。「天神橋」はまだなかった=エッゲンベルグ城説
二、第三扇が「天神橋」、第四扇が「天満橋」である。「京橋」はまだなかった=大坂城天守閣説
三、第三扇は「天神橋」、第四扇は「京橋」である。「天満橋」はまだなかった=八軒家かいわい説

豊臣時代の大坂の街については、参考にできる画像資料はほとんどないのが実情です。だからこそ、エッゲンベルグ城の屏風がNHKも取り上げるほど騒がれた訳ですが、この屏風も含め、後代(たぶん江戸初期)に描かれた数点の屏風絵で当時の市街の様子を推し量るしか道がありません。

幸いなことに、エッゲンベルグ城の「豊臣期大坂図屏風」再発見をきっかけに大阪城天守閣で開催された「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭締結記念特別展」(二〇〇九年)で、それらの貴重な屏風絵をまとめて閲覧することができました。同展図録より、景観年代の古いと思われる順に抜き出してみます(解説も)。なお、図一についてはこちらを御覧下さい。


図二 大坂冬の陣図屏風(六曲一双)左隻四扇・五扇
幕府の奥絵師をつとめた木挽町狩野家に伝来したものだが、それ自体も江戸後期の模写本で、原図は存在しない。景観年代=一六一四年


図三 大坂夏の陣図屏風(六曲一双)左隻一扇・二扇
合戦後まもなく、福岡藩主黒田長政が描かせたものと伝えている。景観年代=一六一五年


図四 大坂市街図屏風(六曲一隻)四〜六扇
大坂冬の陣・夏の陣から立ち直った大坂の繁盛ぶりが、本図の主題だろう。景観年代=一六〇〇年代前半?


図五 大坂市街・淀川堤図屏風(八曲一双)左隻一扇〜四扇
江戸時代初期、17世紀中葉以前の町絵師による作品とみられる。景観年代=一六四四年以後?

いずれの屏風も、問題の橋が描かれている部分のみを抜き出しました。さて、どうでしょう。図五を除き、大川(および大和川)にかかるそれらしき橋は二橋のみ。ただし、図二・図四では、東横堀より西に難波橋らしき橋が描かれています。これは「豊臣期大坂図屏風」(図一)にはありませんでした(右端に描かれている帆船が外洋船らしきところからそう判断したのですが、単に省略されているだけかも知れません)。

さて図二ですが、図録解説によれば、大和川にかかる橋(上)が「豊臣勢が京橋をわたって出撃する」、大川にかかる橋(下)が「現在の天満橋あるいは天神橋の前身にあたる橋」となっています。ところが、図をよく見ると、下の橋には「天神橋」という書き込みがあるのがわかります。従来、この書き込みは「天満橋の誤り」としてあっさり片付けられていたのですが、さすがにおかしいと思ったのでしょう。「天満橋あるいは天神橋」と言葉を濁したようですが、しかしこれでは図一の解説とつじつまが合いません。

図三は史上名高い「大坂夏の陣」を描いた有名な屏風です。残念なことに大川(および大和川)にかかる橋は一つしか描かれていません。図録には「天満橋は焼け落ちており、避難民や敗残兵は徒歩で淀川を渡っている」とあります。図二で言葉を濁した天守閣さん、ここでは強気です。「天満橋」と言い切っています。とすれば天神橋はどこに消えたのでしょうか?

図四は「京橋」が特定できるので貴重です。五扇上方に描かれた橋に「京ばし」の貼紙がみえます。この図でも東横堀より東の大川に架かる橋は一本だけです。残念なことに貼紙の文字が消えていますが、図録では「大坂の陣後、幕府によって掛け直された天満橋」とされています。さらに、橋のたもと(西側)に船着場が描かれていて、これを「八軒家船着場」としています。う〜む。

図五では方角がかなり歪曲されています。大川が東西にまっすぐ延びていて、大和川との合流地点が描かれていません。したがって京橋は無しです。橋は一本だけで、図録では「天満橋の上では男と女がけんかしている。橋の向こう側は八軒家浜」となっています。ここまでは、まあ許容範囲ですが、天満天神の祭礼が出てきて(三・四扇)おかしくなります。これは「天神祭」を描いたものですが、天満天神の位置が天満橋とされる橋の上流(東)にあります。ここで、ん?となります。いかに歪曲されているといえ、川の上下などの相対位置は外さないのがこの手の市街図の作法です。ちなみに、現在の天神社は天満橋の下流(西)、天神橋の北に位置しています。寛永二十一年(一六四四)に避難先の吹田から戻って以来、ずっとこの位置です。

図一〜図五に共通して言えるのは「東横堀より東(かつ大和川との合流点より西)で大川に架かる橋は一橋のみ」ということです。一五九四年の天神橋創架記録(天満天神社社伝)を信頼できるものとするなら、描かれた橋を「天神橋」とすれば図二〜五でとりあげた矛盾はすっきり解消します。

残る問題は「八軒家船着場はいつごろどこにできたのか」「天満橋はいつごろどこにできたのか」、この二点です。(津川)

投稿者 tategaki : 17:39| コメント (0)| トラックバック (0)

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