2011年02月28日

二月の購入図書

別冊太陽『世阿弥』(平凡社 二〇一〇年)

↑表紙=能面「近江女」/(財)観世文庫蔵/写真:林義勝

「初心忘るべからず」「秘すれば花なり」能役者として芸道に心血を注ぎ、多くの新作能や珠玉の伝書を遺した世阿弥。六百年を経て、なお輝きを増す世阿弥の事績と生涯に迫る(本書表紙より)。

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2011年02月17日

難波宮の壁土


↑大阪市文化財情報『葦火』一五〇号(二〇一一年二月一日発行)の表紙を飾る「難波宮跡で見つかった壁土」

中央区森ノ宮中央二丁目で行った調査で、前期難波宮のものと考えられる大量の壁土が出土しました。白壁が使われるなど、宮殿は荘厳であったようです。

詳しくは同誌「宮域当方の谷より、前期難波宮の壁土が大量に出土」(大庭重信)をご覧ください。

『葦火』のお求めは左記で
文化財の出版刊行物(大阪文化財研究所)

(津川)

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2011年01月31日

一月の購入図書

『三井記念美術館所蔵 旧金剛宗家伝来 能面』三井文庫 三井美術館編(展覧会図録 二〇〇八)


↑三井記念美術館では、北三井家旧蔵の能面・狂言面を約六十点所蔵していますが、これらのうち五十四面の能面が旧金剛宗家に伝来した能面で、昭和十年に金剛右京氏より三井八郎右衛門(高公)氏が譲り受けたものです(本書「ごあいさつ」より)。

『通り抜け その歩みと桜』造幣局泉友会編(創元社 一九九六)


↑表紙


↑第一回(昭和五〇年)の「今年の花」の「黄桜」(本書より)

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2011年01月07日

災害教訓の伝承

本日付け毎日新聞夕刊(関西版)から。


阪神大震災16年:災害教訓、冊子で伝承
中央防災会議、25記録まとめ

 全国に残る災害の教訓を将来に役立てようと、国の中央防災会議の専門調査会が取り組んでいた掘り起こし作業が終了した。「二度と繰り返すな」との先人たちの思いを、今春にも冊子にまとめ、全国の図書館などに配布する。取り上げたのは、安政東海・南海地震(1854年)など江戸期から近年の雲仙普賢岳噴火(1990〜95年)まで25の災害。事務局の内閣府の担当者は「将来を担う若い世代に読んでほしい」と話す。【堀江拓哉】


↑安政南海地震の津波被害を伝える石碑=大阪市浪速区で

 ◇安政地震「津波、同じ過ちで死者」
 大阪市浪速区の大正橋東側に一つの石碑が建つ。大阪を襲った安政南海地震の津波被害を伝える碑で、地震の翌年(1855年)に建立された。「148年前の地震(宝永地震・1707年)でも船に乗った人が大勢津波で死んだが、言い伝えを知る人が少なくなり、また船に乗って同じ原因で死者を出した」「大地震の時は決して船に乗ってはいけない」。当時の教訓が刻まれる。

 また、碑は「いつまでも読みやすいように毎年文字の上に墨を入れて黒く塗ってほしい」と、継承の大切さも訴えている。

 こうした災害の教訓や言い伝えは各地に残るが、中央防災会議は03年、「阪神大震災のような被害を二度と繰り返さないために、過去の災害から学ぶことが大切」として、「災害教訓の継承に関する専門調査会」を設置した。

 以降、各地の記録を掘り起こし、25の災害の報告書とともに普及版としてとりまとめたのが、今回の冊子だ。災害を「海溝型地震・津波編」「内陸直下型地震編」「火山編」「風水害・火災編」の4編に分類した。

 大阪・大正橋の石碑は「1854安政東海地震・安政南海地震」の項に登場。豪商が自分の田の稲束に火を付け、海辺の村人を高台に集めて津波から救ったという故事「稲むらの火」とともに取り上げられ、「いま大阪に住む人は、この石碑の建立者の教訓と重い意志に応えることができるのであろうか」と問いかけている。

 冊子は今後、中学校や高校の防災教育に活用。ウェブ上でも公開する。また、小学生でも親しめるように、被災者の声を集めた体験集も取りまとめる予定だ。

 専門調査会の座長を務めた伊藤和明・NPO防災情報機構会長は「災害は起きる間隔が長いからこそ、それぞれの地域で過去にあった災害を認識しておくことが大切。経験から導き出された教訓を将来の防災に生かしてほしい」と話している。

この記事で紹介されている安政南海大地震は、『八軒家かいわいマガジン』でも取り上げています。ご一読を。

『浪速っ子を震え上がらせた大地震と津波の話』

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2010年12月21日

十二月の購入図書

「室町時代」脇田晴子(中央公論社 一九八五)

南北朝動乱と応仁の乱に連なる戦乱とにはさまれた十五世紀は、商品経済がはじめて社会に浸透した時代であった。富がすべてに優先するという市民的論理が登場したとき、社会はいかに変化するのか。従来、農村内部にのみ目がゆきがちであったが、本書では、商工業者の動向、都市の誕生との関連で時代を捉え直す(本書カバーより)。

「近世大坂の町と人」脇田修(人文書院 一九八六)


こちらは、脇田晴子さんの夫の脇田修さんの著書。「本書は、近世大坂の歴史を、その前提である戦国時代からはじめて、大坂の建設と町、経済、町人意識と思想文化などにわかって項目をたてて記述した。それぞれの項目は読み切りにしているが、それを通してみれば、近世大坂の歴史をほぼ通覧できるようになっている」(本書「あとがきにかえて」より)。

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2010年12月17日

倭の五王が愛した須恵器

今年の四月に難波宮跡(大阪市中央区)から、初期須恵器を焼いた窯(上町谷窯)が二基見つかりました。いずれも五世紀前半のもので、この時期の窯は日本で一〇箇所ほどしか見つかっていません。


↑上町谷一・二号窯(南東から 写真奥が一号窯)

窯跡のあった上町台地北端(左図)は、後に難波宮が築かれる重要な場所。古墳時代、法円坂倉庫群に先行する施設がこのあたりにあり、そこへの供給を目的として上町谷窯が築かれた可能性が指摘されています。


↑調査地の位置と周辺の地形
寺井誠2004「難波宮成立期における土地開発」『難波宮址の研究』第十一 所収図を改変

五世紀前半といえば、倭の五王の時代。いまだに所在がはっきりしない仁徳天皇の高津宮も、実はこのあたりにあったのではないか・・・・・これからの発掘調査が楽しみです(津川)。

※引用はすべて、市村創「上町谷の発見」『葦火』一四八号・一四九号より(写真・図も)。

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2010年11月25日

大阪市「水都再生」事業
16年ぶり本格着工


(yomiuri onlineより)

 大阪都心を「ロ」の字形で囲む水都のシンボル「水の回廊」の水質を改善するため、大阪市は、地元の反対で頓挫していた下水貯留施設「滞水池」(西区)の当初計画を見直し、国の事業認可から16年ぶりに本格着工した。総事業費は46億円で、2018年頃の完成を見込む。大規模下水道「平成の太閤下水」も建設中で、「水都再生」に向けた2大浄化対策プロジェクトが始動する。

 滞水池は、降雨時の下水を一時的にとどめ、雨があがった後に処理場に送る施設。1994年に事業認可され、市は長堀抽水所(同市西区)の深さ約14メートルの地中に鉄筋コンクリート製タンク(貯留量2万立方メートル)を設置する計画をまとめた。しかし住民から臭気などを理由に反対の声が上がったほか、市議会から見直しを求める意見があったため、工事は中止されていた。

 市は工事再開に向けて、昨年末、さらに1メートル掘り下げるなど計画を一部見直した。地元住民からは反対署名が提出されたが、市議会は「一定の配慮がなされた」として計画反対の陳情書の不採択を決め、本格着工に道筋がついた。

 水の回廊は木津川、東横堀川、道頓堀川、土佐堀川、堂島川の5河川で形成。遊覧船が行き交い、大阪観光の名所となっているが、河川の透明度は低い。

 このうち、木津川では、雨量が下水処理場の能力を超えると、汚水を未処理のまま放流。水の汚れを示すBOD(生物化学的酸素要求量)は、汚水の吐き出し口付近で一時、環境基準の20倍近くになっていたが、滞水池の整備により、汚れは10分の1になるという。

 道頓堀川と東横堀川については、地下50メートルにトンネルを造り、汚水が川に流れるのを防ぐ「平成の太閤下水」(長さ4・7キロ)の整備が13年度完成を目指して進行中。市は「美しい水辺を取り戻し、にぎわいづくりの核にしたい」と期待を寄せる。
(2010年11月19日 読売新聞)

「太閤下水」については、2009年1月22日付け当ブログで紹介しています。以下に抜粋して再掲します。

ロンドンより早かった!太閤さんの下水道

 ロンドンで下水道が整備されたのは十八世紀以降。ところがさすがわれらが太閤さんです。大阪城築城を開始した天正十一年(一五八三年)にはそれと並行して壮大な街づくりに着手しています。その折に下水溝も設けられました。道路と下水溝を縦横に巡らせた世界でも最先端をゆく街づくりだったわけです。
 宣教師フロイスは「四十日間で七千軒の家が建った。工事には当初二〜三万人、その後は五万人が従事した」と耶蘇会「日本年報」に記しています。

その頃の町は北向き、南向きの二軒を背中合わせに建てるやり方。その二軒の間を下水溝が流れていました。ということでこの太閤下水のことを背割下水とも呼びます。


↑太閤下水
現在も活用されている太閤下水の内の約七キロは現在、大阪市指定文化財になっています。

 この下水溝は明治二十七年(一八九四年)には太閤下水の百二十キロの水路を対象に工事が行われ(底にコンクリートを打って蓋をして)暗渠になりました。いまでもその二十キロほどは市民のライフラインとして使われているのです。強固な石垣で護岸されているので、あと数百年は持つだろうともといわれています。(平野)
http://tategaki.jp/data_A/2009/01/post_35.html


↑太閤下水見学施設
八軒家から熊野街道を南へ十五分ほどのところに見学施設もできています(南大江小学校正門横)。

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2010年11月15日

十月の購入図書

大阪叢書2「難波宮から大坂へ」栄原永遠男・仁木宏編(和泉書院 二〇〇六)↓

前近代の都市大阪の歴史は、七世紀の前期難波宮にはじまり、平安時代から中世につづき、一六世紀の大坂(石山)本願寺を経て、豊臣秀吉の大坂城下町へと引き継がれてゆく。本書はそうした古代・中世の大阪の歴史を、都城論、考古学、宗教史、政治史、都市史・商業史などさまざまな分野から総合的に明らかにするはじめての試みである(本書「はしがき」より)。


特別展「住吉さん 住吉大社一八〇〇年の歴史と美術」図録(大阪市立美術館 二〇一〇)↓

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2010年10月20日

難波宮、白い宮殿
壁土の破片大量出土

(以下、読売新聞「列島いにしえ探訪」より)

大阪市中央区の難波宮跡で、孝徳天皇(在位645〜654年)が飛鳥から移した都「難波長柄豊碕宮(とよさきのみや)」の宮殿に使ったとみられる白壁の破片が出土し、市教委と市博物館協会大阪文化財研究所が13日、発表した。大化の改新に合わせて完成した宮殿が真っ白な壁で覆われていたことがわかり、日本書紀で「ことごとく論ずべからず(言葉では言い尽くせない)」と表現された壮麗な姿が裏付けられた。


↑難波長柄豊碕宮の宮殿に使われたとみられる白壁の破片=宇那木健一撮影

 難波宮跡の東側から、コンテナ25箱分の壁土(最大で約30センチ角)が出土。うち一部の表面は、しっくいか白い土が塗られていた。4〜5層に土を塗り固めた丁寧な造りで、天皇が居住する内裏などに使われたらしい。

 7世紀の白壁は、山田寺(奈良県桜井市)や上淀廃寺(鳥取県米子市)などで出土しているが、いずれも寺院建築。宮殿の白壁は、藤原宮や平城宮でも見つかっていないという。

 難波宮跡は、前後2時期の宮殿跡がある。前期の難波長柄豊碕宮は、蘇我氏の滅亡後、新たな政治の場として造営された。飛鳥に都が戻った後の686年、火災で燃えたという記述が日本書紀にあり、壁土にも焼けた跡が確認できることから、火事の後にまとめて捨てられたらしい。

 現地説明会は16日午前10時〜正午。現場は市営地下鉄森ノ宮駅の西約400メートル。
(2010年10月14日 読売新聞)


(以上、引用終り)


↑前期難波宮の遺溝配置と今回の調査地の位置(大阪市教育委員会報道発表資料より)

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2010年09月28日

九月の購入図書(二)

「山方蟠桃と大阪の洋学」有坂孝道(創元社 二〇〇五)

↑「独創」にこそ価値があるとすれば、山片蟠桃ら大阪の町人学者たちは時代をはるかに抜きん出ていた。鎖国下にあって営々として積み上げられた西洋文明吸収の努力と日本人の高い知性が、維新以後の急激な西洋化を可能にした。(アマゾン「BOOK」データベースより)

新潮古典文学アルバム20「上田秋成」長島弘明・池澤夏樹(新潮社 一九九一)

↑人間の執念の戦慄を描く怪異小説『雨月物語』、人の運命の不可思議を問う『春雨物語』、俳諧・国学・和歌と、多才に生きた浪華の「浮浪子」秋成の文学と生涯。(アマゾン「BOOK」データベースより)

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