2010年05月17日
喫茶のルーツは難波津にあった!
四月八日付け読売新聞「列島いにしえ探訪」に、こんな記事がありました。
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大阪市・中央区瓦町
緑釉陶器の破片出土…8〜9世紀の茶道具か
難波津で接待の可能性
出土した緑釉陶器の火舎の破片 大阪市中央区瓦町の大坂城下町跡の下層で、奈良時代終わりから平安時代初め(8世紀末〜9世紀初め)の高級品、緑釉(りょくゆう)陶器の破片が、市博物館協会の発掘調査で出土した。「火舎(かしゃ)」と呼ばれる特殊な火入れで、全国で十数例しか知られていない。同協会は「遣唐使が中国から喫茶の風習を伝えたとされる時期にあたり、茶道具の可能性がある」としている。
破片は縦9センチ、横7センチ。火舎の上部に当たり、口径約20センチ、高さ約25センチに復元できる。内側には火を受けた痕跡があり、胴につばを巡らせた羽釜とセットにして、湯をわかしたらしい。
緑釉陶器は9世紀以降、平安京を中心に上層階級に広まったが、それまでは儀式など非日常的な場で使われたとされる。火舎は奈良時代後半から平安時代初期の都や役所など限られた時期、場所でしか見つかっていない。破片は東西5・4メートル、南北4メートル以上の建物跡で出土。海辺に近く、瓦の破片もあったことから、建物跡は難波津にかかわる公的施設の可能性があり、火舎もそこで使われたとみられる。
同協会大阪文化財研究所の岡村勝行・主任学芸員は「茶道具だったとすれば、迎賓館的な施設で茶がたしなまれていたのではないか。大陸から伝わった茶文化に、考古学的な証拠から迫る成果になる」と話している。
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↑出土した緑釉陶器の火舎の破片(2010年4月8日 読売新聞)
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筆者の記憶によれば、茶(喫茶の習慣)の伝来は鎌倉時代、臨済宗の祖・栄西が留学先の中国(南宋)から持ち帰ったとされています(ウィキペディアにもそう書いてあります)。ところが最近では、もっと古く奈良時代にはすでに茶は飲まれていたとする説が有力(注)で、今回の「火舎」もそれを裏付ける証拠だとされています。
(注)巽惇一郎「日本における茶法の開始」(新版古代の日本6近畿2)一九九一
それにしても茶道具とは!しかも難波津!発掘現場(瓦町)はわが八軒家にほど近く、かいわいと称してもおかしくない位置にあります。「大坂城下町跡」は幾度かの発掘事例があり、今回は二〇〇九年の発掘時の成果(注)です。
(注)岡村勝行「なにわの海に臨む、謎の古代建物」(大阪文化財情報 葦火144号)二〇一〇
同現場では、これまでに古代・中世の土師器・須恵器や近世の陶磁器・瓦などが発掘されています。難波津がどこにあったのかはいまだに定説をみませんが、当会は高麗橋付近とする日下雅義の説に組みします。高麗橋は発掘現場(瓦町)から北へ約300メートル、八軒家から西へ同じくらいの距離。遣唐使として難波津から船出した空海や最澄も、この地で茶をしばいて潮待ちしていたと想像するだけでも愉快です。
「大阪の幹線道路にほど近い、喧騒な都心の地下数mから浮かび上がる、千二百年前の厳かな雰囲気。今後さらなる解明が期待されるところです。」(岡村)
投稿者 tategaki : 12:23| トラックバック (0)
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