2009年11月30日
八軒家浜が登場する
時代伝奇小説
「花はさくら木」
二〇〇五年に朝日新聞に連載された、芥川賞作家・辻原登さんの「花はさくら木」(朝日文庫)は、第三十三回大仏次郎賞を受賞した時代伝奇小説です。
描かれた時代は、市場経済が江戸政権を徐々に侵食し始め、京・大坂の文化が爛熟を極めた、宝暦十一年(一七六一年)。
物語の大きな軸は、淀君の血をひく菊姫を利用して徳川幕府転覆を画策する京・大坂の豪商たちと、幕閣・田沼意次率いる薬込役(くすりこめやく=お庭番)との熾烈な戦いですが、後半のクライマックスには、大坂までの淀川下りの情景が印象深く描かれています。
伏見の湊はもちろん、枚方宿のくらわんか舟、終点の八軒家浜、天神橋、天満橋の賑わいなどが活写されています。
また、伊藤若冲や大典顕常、与謝蕪村、円山応挙、池大雅、売茶翁、木村蒹葭堂、上田秋成などの絵師や文人、朝鮮通信使の一行、若冲&大典の「乗興舟」や応挙の「淀川両岸絵図巻」の親分である中国美術の至宝「清明上河図(せいめいじょうがず)」(北京・故宮博物院蔵)など、当サイトでもお馴染みの面々や、川を彩る芸術作品が登場し、物語に豊饒な厚みをもたせています。
スケールの大きな冒険綺譚と華麗な文化が織りなす、江戸時代中期の京・大坂の世界へ、ちょっと旅をしてみませんか。(千三屋)
投稿者 tategaki : 10:30| コメント (0)| トラックバック (0)
2009年11月11日
オーストリアにあった!
豊臣時代の大坂図
オーストリア、グラーツにあるエッゲンベルク城で、豊臣時代の大坂を描いた屏風絵が再発見されました。慶長年間(一五九六〜一六一五)の大坂の町の様子を大和絵の手法で克明に描いたものとされています。同じテーマの作品は世界中を探してもこれ一点しかなく、豊臣時代の大坂町人の暮らしぶりを記録した資料としても第一級の貴重な作品です。

↑豊臣期大坂図屏風
エッゲンベルク城の壁画を八曲一隻の屏風に再構成したもの。大阪城天守閣美術館にて現在開催中の「大阪城・エッゲンベルグ城友好城郭締結記念特別展」にて、精巧な実物大レプリカを見ることができます。二十三日まで。
屏風絵の解説および再発見の経緯については、グラーツ観光局のホームページにくわしく述べられています。以下に引用します。
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一六世紀中頃、ポルトガル人が日本に上陸して以来、スペイン人、オランダ人、イギリス人が相次いで訪れ、日本の芸術品は珍品として欧州に持ち帰られることとなった。今日エッゲンベルク城に所蔵されている屏風絵は、そうして珍重されたもののひとつである。これは本来、 八曲屏風であり高さ182センチ、幅480センチと、通常の屏風よりも明らかに大型である。推定によれば、これは1660年から1680年の間にオランダ人から購入され、まずヨハン・ザイフリート・フォン・エッゲンベルク候の市中宮殿で使われていたようである。1754年に始まった城内迎賓階の改修時にこの八曲が解体され、当時流行した「インディアン・キャビネット(小間)」に、異国情緒の壁画と交互に組み合わせて壁の装飾として個別にはめ込まれた。このようにして、この貴重な豊臣期大坂図屏風は今日まで保存されることとなった。
この大坂図屏風は、鉱植物の顔料を用いて紙に描いた伝統的な日本画法で、大和絵派の町絵師の一人によって仕上げられたものである。しかしそれ以上の詳細はわかっていない。屏風絵は、おそらく慶長十二年(1607)から慶長十九年(1614)の間に描かれたものと思われる。依頼主も不明だが、豊臣秀吉 (1536‐1598)に近い大名からの依頼と推定される。秀吉は、低い身分の足軽から最も権力のある武将かつ支配者の地位に上りつめ、百年以上に及ぶ内乱を治めて国に平和と繁栄をもたらした。
屏風絵は、右から左へと順に第一扇、第二扇とよび習わしている。ここには大坂の景観が連続して描かれており、当時日本で最大かつ最も豪奢であった大坂城城郭だけでなく、町屋や名のある神社仏閣も見ることができる。この絵からは、明るい華やいだ雰囲気が伝ってくる。武士や町民も含めておよそ500の人物は、慶長年間(1596‐1615)の特徴でもある大柄で色鮮かな、個性的な意匠の小袖をまとっている。全ての建物が、感じのよい淡色でまとめられている。さら に、金雲によって豊かに装飾が施されているが、これは町の様々な風景や、時日の異なる出来事をひとつのコンポジションとしてまとめる際に、屏風絵で用いられる典型的な表現手法である。災厄や貧困などは全く描かれていない。
平和で栄華を極めたこの時代から慶長二十年(1615)の大坂城落城までの間の大坂城の姿や城下の情景を留めた絵は、現在ほとんど残っていない。ゆえに、エッゲンベルク城の屏風絵は、豊臣期を記録した貴重な資料である。しかしその描写は、現実をそのまま写し取ったものではなく、むしろ特色ある建造物や出来事をエレメントとして構成し、様式化した絵画と理解すべきである。建物と人物の大きさの比例関係も、現実を離れたものである。人物は必要以上に大きく描かれ、逆に建物や船は特別小さく描かれており、できる限りたくさんの事物が絵の中に納まるよう配慮されている。これも屏風絵の特徴的な表現手法といえる。さらに、城郭や社寺、また城下の景観などは簡略され、特定部分だけが象徴的に描写されている。
この大坂図屏風は、大坂城の北から南を俯瞰する構図を取っている。西方を描いた第一扇と第二扇には、城下の一部が見渡せる。最も大きい場所を占めているのが、壮大な城郭である(第二扇から第八扇)。北側は、淀川と大和川によって、西側は、運河としても利用された東横堀川が城の外郭をなしている。南方と東方の地勢的な詳細は、構図上の理由から省かれている。東方(第八扇)には、隣国の山城国にある神社仏閣が描かれている。大坂城を守護するかのように城の周りに構図された社寺は、秀吉や秀頼の寄進で造営または修復されたり、花見や戦いの舞台となったなど、特別に豊臣家と関りの深い場所である。
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以上、引用おわり。(津川)
投稿者 tategaki : 13:37| コメント (0)| トラックバック (0)
2009年11月05日
石山本願寺の土壁発見!?
(以下すべて、産経ニュース 十月三十日より)
大阪城天守閣(大阪市中央区)北側で、16世紀後半の素焼きの土器や焼け焦げた土などが市文化財協会の発掘調査で見つかっていたことが30日、分かった。同協会の佐藤隆事業担当係長によると、織田信長と本願寺勢力が争った石山合戦の舞台で天正8(1580)年に炎上した当時の浄土真宗本山「石山本願寺」に関連する可能性が高いという。石山本願寺の炎上後、豊臣秀吉が大坂城を築いたとされるものの、これまで明確な痕跡は見つかっておらず、幻の寺院の存在を裏付ける資料になりそう。

↑発掘現場

↑大阪城天守閣近くで見つかった土師器片。石山本願寺で使われた可能性が高いという=大阪市中央区の市文化財協会(小畑三秋撮影)

↑土師器が見つかった発掘現場(大阪市文化財協会提供)
(以上、引用終り)
石山合戦について詳しくは、八軒家かいわいマガジン
「津の国ものがたり 楼の岸」で。(津川)
投稿者 tategaki : 13:39| コメント (0)| トラックバック (0)
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