2009年01月29日
壬生浪士VS相撲力士乱闘事件
壬生浪士とはのちの新撰組。文久三年(一八六三年)六月、不逞浪士の取り締まりを大阪町奉行から依頼された壬生浪士の近藤勇ほか十名は八軒家の京屋に宿をとります。
あまりの暑さに、近藤ほか二名を残して、ほかのメンバーが京屋の小舟で大川へ夕涼みに出掛けます。そのあと鍋島岸(現在の裁判所合同庁舎あたり。鍋島藩の藩邸があったことからこう呼ばれる)で舟を下り、北新地の住吉楼へ向かおうとした蜆橋。ここで事件が起こります。
前方から来た大坂相撲の一行と壬生浪士の間で「道をあけろ」「いやそっちこそ」といった口論が始まり、浪士の一人芹沢鴨が脇差しを抜き、峰打ちで力士を払いました。
さて、住吉楼へ上がって酒宴をひらいている最中、外が騒がしくなりました。なんと八角棒を持った力士数十人が意趣返しにやってきたのです。血気にはやる壬生浪士、しかも酒が入っているとあっては、これはもう大乱闘です。力士たちは死者一名のほか十数人の負傷者を出し、退却してゆきました。
京屋でその顛末を聞いた近藤が芹沢と連名で東町奉行所(西町奉行所だという説もある)に届け出た「口上覚」の記録が残っています。
↓相撲絵(歌川国貞画、一八六〇年代) *ウィキペディアより
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翌日、乱闘の相手が壬生浪士だったと知った力士たちが詫びを入れ、これを快諾した壬生浪士はのちに開催される大坂相撲と京都相撲で警備を担当するなど友好関係を結びます。
↓明治中頃の相撲風景 *ウィキペディアより
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ちなみに相撲や歌舞伎の贔屓筋のことを「タニマチ(谷町)」と呼びますが、これって谷町筋となにか関係があるんでしょうか。調べてみると確かなことは分りませんが、明治時代の終わり、谷町四丁目あたりに歯科医(外科医という説もあり)がいた。病院内に土俵を設けるほどの大の相撲好き。力士を無料で治療したり、若い力士に小遣いを与えたりしていた。そこからきていると言われています。(平野)
投稿者 tategaki : 14:31| トラックバック (0)
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