2008年11月12日
空海はここから唐へ船出した?(天神橋)
鋼製のアーチの上に軽快に載る現在の天神橋は昭和九(一九三四)年に造られました。昭和六十二(一九八七)年の美装化の折には、中之島の剣先の公園へ降りるスロープを設け、橋の歴史碑や遣唐使船、天神祭絵巻など、天満宮ゆかりの絵陶板が飾られました。
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えっ、遣唐使船?と思われる方もあるかもしれません。実はこの天神橋のあたりが難波津(諸説ありますが)だったと言われています。となると空海(弘法大師)が唐へ向かったのはこのあたりの港(難波津)だったということになります。
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古代の大阪湾は大阪平野の奥まで食い込んでいましたが、弥生時代には上町台地の砂州が北へ伸び、大きな湖ができあがりました。大化の改新の頃にはこの難波津が水上交通の一大拠点へと整備されます。初期の遣唐使船はここから出発していきました。
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*大阪湾のくわしい歴史は〈大阪湾環境データベース〉でどうぞ。
http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail_p07.html
天神橋は、豊臣秀吉の時代に架けられたと伝えられ、当初は新橋とよばれていたそうです。しかし、天満天神社が管理したことから次第に天神橋と称されるようになりました。
寛永十一年(一六三四)他の十一橋とともに公儀橋に。天満橋、難波橋とともに浪華の三大橋と親しまれました。「天神橋長いな―落ちたら怖いな―」と童歌にも歌われたそうです。
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明治初期までは木橋でしたが、明治十八年の大水害で流失、同二十一年に鉄橋に架けかえられました。ドイツより輸入されたトラスト橋で当時全国で最も長径間の道路橋でした。現在の橋は松屋町筋の拡張に合わせ昭和九年に三連の軽快な鋼製アーチと両端をコンクリートアーチにより成り全長二一○・七メートルで架橋されたものです。
現在は、中之島の剣先(東の先端部)に架かり、天満宮を北岸に望んでいます。
天神橋といえば、天神祭です。その歴史は千百年近くにもなります。葛飾北斎や安藤広重、歌川貞秀も描いた浪華最大の祭礼で、日本三大祭りのひとつに数えられます。七月、天神祭りの船渡御の華麗な水上パレードが執り行われ、市民のビッグイベントです。
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(大西)
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