2008年11月28日
写真集なにわ今昔(毎日新聞社)
本日入荷しました。

発行/昭和58年7月
発行所/毎日新聞社
〈八軒やかいわい関連写真・絵図〉
グラビア 明治37年の堂島川を走る帆船
34頁 明治時代の蜆川
50頁 大正の初めの道修町
51頁 天満の青物市場
58頁 浪華大川眺望図
62頁 八軒家渡しの図(安藤広重)◎
166頁 大川航空写真(昭和4年)
220頁 明治時代の京橋の写真◎
222頁 明治時代の天満橋(水害)◎
―などなど貴重な資料満載の写真集。
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2008年11月26日
摂津名所図会大成 (全二巻)
本日入荷しました。
サイズ/A5判上製
ページ/総千百七十六頁
出版社/柳原出版株式会社

昭和2、3年に刊行された「浪速叢書」に収録されているものの復刊。著者の暁鐘成は幕末浪華の人。原本は晩年の鐘成が心血をそそいで執筆したもので、挿入の挿絵もほとんど完成していたが、鐘成の不慮の死によって刊行に至らず、その自筆原稿本は河内屋に秘蔵されていた。寛政年間刊行の『摂津名所図会』は摂津十二群全域にわたるが、本書は現在の大阪旧市域と周辺に限り、その記述は詳しい。名所旧蹟から堂島米相場市、道修町薬種商、天満疏菜市、心斎橋の書肆、道頓堀芝居側をはじめ、庶民の暮らしなども取り上げ、幕末の大阪の生活史を明らかにする(柳原出版HPより引用)。
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2008年11月13日
ん?防空壕の開かずの扉
八軒家から土佐堀りを南へ。石段を上ると北大江公園です。この公園の地下にどうやら防空壕らしきものがあります。


ところがもう何十年も扉が開けられることもなく過ぎているようです。どうも気になります。中は一体どうなっているんでしょう。市の管轄なんでしょうか。戦時中にはさまざまな物語を紡いできた防空壕に違いありません。こんな風に誰にも還り見られず忘れられていくのはちょっと淋しい・・・。

ということで情報提供のお願いです。北大江公園の防空壕にまつわる思い出や当時のお写真、資料をお持ちの方、編集部までご連絡ください。貴重な記録をこのウェブマガジンでご紹介して後世に残したいと思います。ご協力をよろしくお願いします。
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2008年11月12日
空海はここから唐へ船出した?(天神橋)
鋼製のアーチの上に軽快に載る現在の天神橋は昭和九(一九三四)年に造られました。昭和六十二(一九八七)年の美装化の折には、中之島の剣先の公園へ降りるスロープを設け、橋の歴史碑や遣唐使船、天神祭絵巻など、天満宮ゆかりの絵陶板が飾られました。

えっ、遣唐使船?と思われる方もあるかもしれません。実はこの天神橋のあたりが難波津(諸説ありますが)だったと言われています。となると空海(弘法大師)が唐へ向かったのはこのあたりの港(難波津)だったということになります。


古代の大阪湾は大阪平野の奥まで食い込んでいましたが、弥生時代には上町台地の砂州が北へ伸び、大きな湖ができあがりました。大化の改新の頃にはこの難波津が水上交通の一大拠点へと整備されます。初期の遣唐使船はここから出発していきました。




*大阪湾のくわしい歴史は〈大阪湾環境データベース〉でどうぞ。
http://kouwan.pa.kkr.mlit.go.jp/kankyo-db/intro/detail_p07.html
天神橋は、豊臣秀吉の時代に架けられたと伝えられ、当初は新橋とよばれていたそうです。しかし、天満天神社が管理したことから次第に天神橋と称されるようになりました。
寛永十一年(一六三四)他の十一橋とともに公儀橋に。天満橋、難波橋とともに浪華の三大橋と親しまれました。「天神橋長いな―落ちたら怖いな―」と童歌にも歌われたそうです。

明治初期までは木橋でしたが、明治十八年の大水害で流失、同二十一年に鉄橋に架けかえられました。ドイツより輸入されたトラスト橋で当時全国で最も長径間の道路橋でした。現在の橋は松屋町筋の拡張に合わせ昭和九年に三連の軽快な鋼製アーチと両端をコンクリートアーチにより成り全長二一○・七メートルで架橋されたものです。
現在は、中之島の剣先(東の先端部)に架かり、天満宮を北岸に望んでいます。
天神橋といえば、天神祭です。その歴史は千百年近くにもなります。葛飾北斎や安藤広重、歌川貞秀も描いた浪華最大の祭礼で、日本三大祭りのひとつに数えられます。七月、天神祭りの船渡御の華麗な水上パレードが執り行われ、市民のビッグイベントです。


(大西)
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お吉殺しの脇差しが川底に!(栴檀木橋)
「この脇差はせんだ(栴檀)の木の橋から川へ、沈む来世は見えぬ沙汰」とは、天満で隣家の油屋の女房・お吉を殺し、金を奪った極悪人の与兵衛が、その凶器を、土佐堀川に捨てるときに吐く台詞(近松門左衛門作・「女殺油地獄」の下之巻より)。

栴檀木橋(せんだんのきばし)は、江戸時代に、中之島の蔵屋敷へ渡る木橋の近くに栴檀の大樹があったので、橋の名前が付けられたとか…。近代になってから、木橋は改築され、鉄、また、コンクリートの橋となりました。その経緯を語る三つの記念碑が、橋詰に設けられています。ただし周辺に植えられている樹は、香木のビャクダン(白檀)ではなく、同類の別の木。香りも「栴檀は双葉よりも芳し」とは異なります。
現在、橋を南から眺めると、正面に赤いレンガの中央公会堂、左手の府立中之島図書館。渡って西へ御堂筋に向かうと市役所と日本銀行のファサードが見えてきます。この数々の近代の名建築に出会えるのがまず魅力。中之島随一の落ち着いた散策スポットといえるでしょう。
栴檀木橋は、中之島へのエントランスとして、歩道を広くとり、車道と区別する植樹を施すなどして整備されています。
かつて、この橋からは、難波、天神、天満の浪華の三大橋と生駒山が東に臨まれ、近松の残酷劇とはほど遠い穏やかな光景が展開していたはずです。
(大西)
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2008年11月11日
浪花名所絵双六に八軒家発見!
梅花女子大学の学術ポータルサイトで「浪花名処道案内」という絵双六が紹介されています。幕末の一八五〇年頃のもの。振り出しから始まって一〇番目が「大江の岸の八軒家」。西は大川から海が広がり、東には生駒山。風光明媚なスポットだったのでしょう。
京都の大阪見物の絵双六では振り出しが伏見、次が八軒家になっているそうです。
http://manabiya.baika.ac.jp/series/ogita/ogita01.html


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「天満の重ね橋」の「もったいない」発想とは?
江戸から明治初めまでの旧天満橋は、しっかりとした木組みの巨大な橋でした。しかし、洪水の度に被害を受け、とくに明治十八(一八八五)の大洪水では淀川に架かるほとんどの木橋が流失してしまいました。天満橋は、その後の復旧工事で、永久化を目指して鉄橋に架け替えられます。製鉄の技術が未熟だったため、主要部材はドイツからの輸入に頼りましたが、橋名額、高欄、照明灯の柱には、国産の鉄製のものが採用されました。その経緯を、公園のモニュメントが語ってくれます。
天満橋近隣には明治三(一八七○)年に造兵司(後の大阪砲兵工廠)、翌四年に造幣寮(造幣局)が橋のすぐ近くに開業して、工業地帯に架かる橋となりました。



昭和十(一九三五)年には、現在の鋼製桁橋に架け換えられ、「鳥がのびのびと翼を広げた」形状を誇りました。さらに昭和四十五(一九六○)年、自動車交通の増加に伴い市電の通行を廃止、並行して自動車専用高架橋が、その上に建設されます。それまでの旧市電の軌道部があった鋼製桁橋への荷重を高架橋のそれと置き換え、二階建ての橋(「天満の重ね橋」)になったわけです。いかにも大阪人らしい合理的な発想の設計になっています。デザイン面でも工夫されています。
江戸の天満橋は、京からの三十石船の発着場として賑わっている八軒家の近く、今の谷町筋より一つ東側の筋に架かっていたそうです。この当たりには各役所が設けられ、橋の南側に東西の町奉行所があり、また北側には役所の倉庫や与力同心の屋敷などが立ち並んでいました。官庁街を結び、役人の通勤路という公儀橋の性格を強かったのでしょう。
しかし、大坂の市街地の南北を繋ぐ要路でもありました。市民の通行量もかなりなものだったと思われます。例えば、雑喉場の魚市とともに市民の食材を供給した天満青物市場は、橋の北詰から西へ天神橋の間・大川沿いの天満浜側筋(天満市之側)にあり、おおいに賑わっておりました。大坂近郊はもちろん、畿内や西国から青果物を集散するその活況ぶりは「摂津名所図会」に描かれています(一九三一年に大阪市中央卸売市場が設立されて廃止になるまで繁栄が続きました)。

(大西)
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2008年11月10日
難波橋にライオン!なぜ?
難波橋は、大正四(一九一五)年に市電堺筋線を北浜から天神橋六丁目へ延長する際、従来の位置(堺筋の西隣の難波橋筋)から堺筋へ移され、現在のような立派な姿に架け換えられました。中之島水上公園を飾ることを意図して設計されたため、随所に斬新なデザインが採用されています。
まず、四隅の親柱の上には、天岡均一作のライオンの石像。右側が口を開く阿形、左側が吽形、神社にある狛犬と同じです。高さ三・五メートル、重さ約十八トン。大阪近代化のたくましいシンボルでした。設計は大阪市電気鉄道部と宗兵蔵氏。荒々しい西洋の獅子に、当時、道を行く人はおどろいたそうですが、やがて「ライオン橋」という愛称で呼ばれ親しまれるようになりました。

ライオン像は古代エジプトで大量に作られていますが、それがネパールを経て朝鮮半島から日本へ伝わり狛犬と呼ばれるようになったと言われています。対岸に天満宮があることから神社の門前の守護神である狛犬を配したのではないかと思われます。
江戸時代、難波橋の界隈は、大名の蔵屋敷や商店が軒を連ね、殷賑を極めていたことが、井原西鶴の「日本永代蔵」に読め取れます。当時、難波橋は、船の運航の便宜のため、中央部の桁下を高くする反り橋であったため、周辺の十六橋や遠くの山々まで眺望できました。
さらに堂島川と土佐堀川の間に浮かぶ中之島の剣先が、夕涼み、花見、花火見物、月見、舟遊びと絶好の行楽地でしたから、見物には、橋の高所は最適の場所とされました。初め、島の剣先は難波橋よりずっと下流にあったそうです。現在より川幅が広くあったこともあり、橋は、長さ一○七間(約二○七メートル)もの巨大なひとつの木橋でした。剣先は、やがて難波橋の下へ、そして大正年間には、さらに上流にある天神橋まで延ばされました。
明治のはじめの頃の錦絵(「浪花十二景之内 難波橋の風景 貞信画」 絵陶板のレリーフは、中之島へ降りる階段の付近にがあります)を見ますと、石垣積みで護岸された剣先のまさに突端に、難波橋が架かっていました。川は行き交う船、橋の上は見物衆で混み合っています。


難波橋は、もともと一本で構成されていましたが、明治九(一八七六)年に架け換える時、剣先部分で南北に分けられ、北側のみが鉄橋となりました。
橋を渡ってみると、市章の澪標(船の航路を案内する杭。国際港・大阪を表します)を掘り込んだ塔があり、重厚さを醸しだしています。市章は、高欄も飾っています。橋のなかほどからバルコニーをもつ石造りの階段がバラ園へと降りています。
ブロンズ製の照明柱もクラシック調の華麗なデザイン。大正初期の粋をこらし、景観面への配慮は行き届き、いまの中之島公園の原型となりました。ライトアップされた中央公会堂を背景とした難波橋は、大阪の建築美の代表と言えるでしょう。
(大西)
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京橋って橋はどこにある?
京橋は、豊臣氏の大阪城とともにすでに北の玄関口として存在していました。名前の通り京への京街道の起点であり、大和街道への起点も兼ねる主要な橋でもあったといいます。
でも京橋駅周辺には見当たりません。ではどこに?実は天満橋に近い日本経済新聞社の脇をながれる寝屋川の下流に、ひっそりと架かっています。ご存じの方も少ないようです。


江戸時代には、公儀橋として擬宝珠を備え、最長時は一○○メートルを超える大規模な橋だったそうです。森琴石の銅版画を見ると、城門の白壁、石垣、甍が美しい大阪城京橋口から京橋は緩やかに弧を描いて京街道へと延びています。旧淀川との合流点であったことから、江戸時代には北詰めに魚市場、南詰めに青物市場あり、繁盛していました。
(公儀橋とは、江戸時代、幕府の経費で架けられた橋のこと。町人が経費を負担して架けた町橋に対してそう呼ばれます)。
この京橋は明冶十八年(一八八五)年の水害で流失し、大正十三(一九二十四)年に改築、長さは往時の半分の五十五mとなりました。現在の京橋は昭和五十六年にさらに大改装されたもの。橋の照明は太閤ゆかりの千成瓢箪を模したものとなっています。京橋に沿って歩行者専用の大坂橋が架かっています。

大正十四年に東横堀川の川底から「大坂橋 天正拾三年」(1585)の銘が刻された擬宝珠が見つかりました(終戦の混乱時に行方不明になっています)。しかしこの「大坂橋」という名の橋は過去の文献などに見当たらず、いまだにその所在などは分っておりません。前述の歩道橋の「大坂橋」にその名が採られ、橋上には「橋名由来碑」が設置されています。
(大西)
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高麗橋は「天下の三大名橋」の一つだった
高麗橋は豊臣秀吉の時代の大坂城の外堀として開削された東横堀川に架かっています。かっては長さが七十メートル余りの大きな橋であったそうです。現在は、阪神高速環状線の高架の下の日陰にひっそりとあります。

橋名に「高麗」とあるのは、古代に朝鮮半島からの使者をもてなす迎賓館があったところだといわれています。ほかにも、豊臣政権の時、朝鮮のとの通商の拠点であったことからだとか、一五九○年に、秀吉の国内統一を祝う国使がきたことに由来するとか、諸説紛々としております。
江戸時代には、十二公儀橋の中でもとくに格式の高く、幕府のお触書を掲示する高札場が西詰に置かれていました。江戸の日本橋、京都の三条大橋と並んで天下の三名橋といわれ、橋の筋には、三井呉服店(後の三越百貨店)や三井両替商ほか商店が並び、盛況を誇る地域でした。
明治になっても、里程元標が東詰に設けられ、ここを起点として西日本の主要道路の距離が測られた重要な橋でした。
注目されるのは橋の西詰、高麗橋筋の両側あったお城の櫓のような建物です。櫓(矢倉)屋敷と呼ばれ、役人が通行人を監視するためのもの、また大坂城の眺望を楽しむためと言われ名所となりました。江戸時代から明治中期まであり、その後、失われました。
高麗橋は明治三(一八七○)に、イギリスからの輸入材を使用した「大阪初」の鉄橋となります。日本では三番目だそうです。ちなみに、明治元年には、長崎にくろがね橋、横浜で吉田橋が建設されています。高麗橋の鉄製の黒い光沢、明るく輝くガス灯は人々を驚かせ「くろがね橋」の別名で親しまれました。

当時の錦絵では「欄干、桁、橋杭に至るまで、ことごとく鉄でないところはない。その上、美しい彩色を施し、左右の欄干の柱の頭には、ガラスの燈篭を設けてある。毎夜、燈を灯して橋上を往来する人々の助けとし、人々が縦横に行き来するのを容易にするためである。同じ年の秋の末には全て完成し、その壮観は言語を絶する」と、説明しています。
鉄橋は昭和初年まで使用されて、現在のコンクリート製のアーチ橋へは昭和四(一九二九)年に架け換えられました。
装飾には、入り口にあった双子の櫓屋敷が、親柱にあしらわれ、慶長年間の格式を表す擬宝珠(現物は、大坂城天守閣に保存されているそうです)の複製は、碑とともにモニュメントして広場に置かれ、昔を偲ぶ手がかりとなっています。
(大西)
投稿者 data_A : 12:37| コメント (0)| トラックバック (0)
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