2008年10月31日
いまの京橋は、目立たない名の橋だ。昔は違った。
地味な、この目立たぬ橋は、かつては京都に通ずる京街道の起点で、野崎参りで有名な野崎街道も兼ねる大和街道の起点でもあった。
「きょうばし」とみやびな名前が、城の石垣をモチーフとしたという親柱に刻んであるが、みての通り真っ黒にすすけていて、読めない。
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慶長二十年大阪夏の陣で、徳川方勝利のあと、家康はにわかに大阪城の焼け跡を実検するといいだした。それも内密に。
わずか数百人の供をしたがえ、城内に充満する勝利軍のあいだを誰にも気づかれず、大阪城の焼け跡をみた。桜門から、ここ京橋口へぬけ、そのまま小走りに京へ向かって駆け抜けた。
用心深い家康は、大勝利に酔うことなく、刺客を恐れた。
本陣茶臼山は危ないと見たのだ。以上は、司馬遼太郎「城砦」にある。
ここ京橋口は、大阪落城後、城内から脱出し逃げ惑う敗残の男女の修羅の巷と化し、NHK「その時歴史は動いた」で、中世の「ゲルニカ」と紹介された。
京橋は、豊臣氏の大阪城時代から、すでに北の玄関口だった。江戸時代は、擬宝珠を備えた公儀橋として、最長時には100メートルを超える規模を誇ったという。
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古地図で見ると、京橋は旧大和川にかかっている。格式と威容を誇るような橋の絵が残っていないのがふしぎだが、芳雪の錦絵を拡大してみると、大阪城の石垣の下、中央の天満橋の奥にみえるのが、京橋である。
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大阪夏の陣で、あえなく大阪城は落城し、城南における混乱は、酸鼻を極めた。
攻め手の徳川家康は、ここらあたりに詰めていた関東方の軍勢に移動を命じ道を明けさせたと伝えられている。死に物狂いの大阪方が抵抗し窮鼠が猫をか
むのを恐れた。
六曲一双の「大阪夏の陣屏風」の大画面には、元和版「ゲルニカ」といわれる阿鼻叫喚の惨状と、京街道沿いに京目指して落ち延びる人々の群れが続くさまが克明に描きこまれている。
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戦後、徳川幕府は、とくに重要な橋12橋を選んで直接管理し、架け替えや補修にあたっては大坂金蔵から出資することにし、公儀橋と呼んだ。欄干には、擬宝珠(ぎぼし)がつけられ、「元和九年造立」と刻まれていた。
そのように格式高い橋も、相次ぐ河川改修により、現在は半分ていど長さの目立たぬ橋になってしまった。
平成のいま、橋の下を流れる川の水は黒くよどんでいる。大阪城京橋口の累々たる石垣の向こうに、西方をのぞめば、きらきらガラスが反映する高層ビ ル群が林立している。大阪ビジネスパークだ。三百年を隔てて、大阪の歴史を象徴する新旧の建築が、歴史の忘れ物のような小橋から一望できるのは、感慨深いものがある。
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昭和○○年、ビジネスパークの高層ビル団地は、大坂砲兵工廠の広大な跡地に建てられた。
短い京橋を渡ると、右手に石碑が建ち、大阪砲兵工廠跡とある。
百年前の明治初年は、当時最先端の文明開化と富国強兵のシンボルが、この界隈一帯だった。明治新政府は、大阪を軍事拠点にすえる構想をもっていた。
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明治二年、大阪城京橋口門内には、兵学寮がおかれ、フランス人の軍事顧問が訓練をおこなった。東側に、造兵司、のちの大坂砲兵工廠が設けられ、大砲弾丸を製造した。
大坂は、水の都どころか、黒煙もうもう、東洋のマンチェスターといわれる工業都市への道をまっしぐらにすすんだのであった。
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昭和二十年八月十四日、敗戦の、その一日前に、大阪造幣廠付近が大空襲され、巨大な軍需工場は崩壊した。
国鉄京橋駅では、高架下に避難した乗客多数が爆死するという悲惨な被害がでた。追悼の記念碑が建てられている。
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対岸の川崎には、明治四年造幣局が偉容をあらわした。いまのように貨幣を鋳造するだけの役目ではなく、当時アジアのおける最新の近代化学工場だった。多数のイギリス人が働いていた。金属を精錬するために、硫酸などの化学薬品などもじか生産し、高火力を得るためにコークスも使用した。副産物として、ガスも製造し、造幣局にはガス灯が配置されていた。お雇い外国人の官舎や与力町の街路のガス灯をともし人々を驚かせた。川口とのあいだには、馬車鉄道が敷設され、電信船も架設され、造幣局には体制の科学が集中的に投入された。
明治維新のさなか、大久保利通らが中心となり、大阪遷都がさけばれたことがある。その可能性がまだ残る段階で、造幣局建設は計画されたという。
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江戸時代、天満橋を渡る人々、城から下がるサラリーマン武士だろう。東の方角に、はるか向こうに見えるのが、京橋である。
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橋のたもとでは、毎朝川魚市が立った。南側には青物市があったが、城の近くの混雑は望ましくないということで、青物市は天満に、海魚は靭(うつぼ)に移った。
川魚市では、朝ごとに、鯉、鮒、うなぎ、鮎、どじょう、すっぽんなど、川魚が運ばれ取引された。
いまも、橋の入り口に、川魚市場跡の石碑が立っている。それにならんで、「摂津名所図会」からとった市場風景の図が掲示されている。
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